短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(203)江戸の珍談・奇談(26)-8 20210705

21.07.05

江戸時代には、幕府に直接関わる事柄を文章化したり、講談として語ったりすることは違法であった。すでに紹介したとおり、山東京伝や馬場文耕のようにどこにその原因があったのか分明でない事例でさえあったのだから、機密情報の漏洩と疑われればなおさらのことである。

ここでは、講釈師南豊亭永助が著した『北海異談』(文化5年)が幕府の機密に触れた廉で禁書となり、永助が獄門に処せられたという事件を紹介しよう。『一話一言』に引かれた罪案は次のようであった。

 かねて生活上の世話をしてくれていた秀弘という者が講釈の手段とするようにと言ってよこした書面は、近頃異国人が渡来したという異説を認めたものであった。講釈には上げられないものの、珍説であるから読本に仕立てたら、物によっては俵屋五兵衛方で貸本にしてくれるかもしれない。それで儲けようと、あらかじめ聞いていた風説あるいは住所不定の者から借り受けた文書に作意を加え、秀弘から受け取った書面の内容を真実だと思われるように増補した。加うるに畏れ多い重役の名を明記しただけでなく、取り分け、根拠のない事を構え、公儀に対して恐れ入る事柄を事実であるかのように書き表し、合巻10冊に仕立て、「北海異談」と表題を記し、五兵衛方へ売り渡した。その上、大坂町奉行における吟味の折り、右の読本に綴ったことは押し隠し、秀弘からよこした書面を元のまま五兵衛へ売り渡したと虚偽を述べた。〈『一話一言』巻35、―『日本随筆大成』別巻5―、116ページ〉

以上の罪状により、「公儀を恐れざる仕方、不届き至極に付き引き廻しの上獄門」とされてしまった。

まず、この処罰の背景には、文化露寇と称される、ロシア軍が択捉島の幕府会所を襲撃した事件がある。機密扱いにしていたはずの事件がどこからか洩れ、それが幕府の逆鱗に触れたのだという。高橋圭一「『北海異談』について―講釈師の想像力―」〈「日本文学」44―1995年―〉によれば、幕府の情報統制に引っかかったというだけでなく、他にも文中に引用された文書の中に公文書から捏造されたと思われる物が大量に含まれていたこと、幕府が発禁処分をした林子平の『海国兵談』からの引用を含んでいたことが重罪となった主な原因だとされる。

ロシアの樺太・択捉における狼藉を含めてこの事件に関する資料は100点以上見出される。中でも蝦夷地に駐留していた南部藩・津軽藩からの報告書などはかなり出回っていたと思われ、永助はこれらの資料に基づいて記述したらしい(高橋論文)。

『北海異談』巻11以降、文化露寇が扱われるが、なんとロシア軍と日本軍とが海戦に及ぶという荒唐無稽な話が展開される。無論事実ではないが、文化4年に秋田藩、同年6月に庄内藩が蝦夷加勢のため藩兵を派遣した事実を種としたり、この戦いで終始仙台勢が活躍するところも、文化5年1月に仙台藩が蝦夷地へ出兵したことから想像を逞しくしたりしたのであろうと高橋は言う。

「資料を先に列挙し、いかにもこれから語ることを事実らしく見せておいて段々に大きな嘘へと導いて行く、途中事実に基づいた記述もちりばめておく、これが南豊の取った方法であった」(同)ことに加え、先に述べた改竄資料を織り交ぜて真実味を一層高めたのであった。

現代でもどこかで聞いたような話だが、さすがに手を染めた者が獄門に処せられることはないし、永助のような際物を出版したからといって、罪に問われることもなかろう。因みに獄門とは、死罪に加えて晒し首となる。江戸なら浅草または品川の晒し場所で三日間首が晒されるのである。永助は摂州西成郡曾根崎村に住んでいたから、大坂の千日刑場で晒されたのであろう(藤井嘉雄『大坂町奉行と刑罰』―清文堂出版、1990年―)。打ち首になる前にさらに引廻(ひきまわし)も追加されている。これも見懲のための制度で、罪人は娑婆の見納めに世間が見られるといって、引廻になることをかえって喜んだという(石井良助『江戸の刑罰』)。  (G)

PAGE TOP