短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(153) 江戸の珍談・奇談(22)-2

16.04.16

ひどく忌み嫌う物をたとえて「蛇蝎(だかつ)の如く」と言う。蝎(さそり)は日本に棲息しないが、蛇は昔からどこにでもいた。四足も毛も持たず羽ももたない生き物だから漢字では虫偏が付く。その片の付かない外貌や執念深そうな性質に恐れを抱き、悪役を割り当てられることが多い。蛇の祟りもその一つである。

文政8年-1825-4月27・8日のころ、浅草鳥越にある柳川侯の中屋敷に住む火消中間(ちゅうげん)千次郎と程五郎という者が、ある茶屋のほとりで、雌雄の蛇が交接しているのを見つけ、散々打擲した後、遂に殺して門前の溝に捨ててしまった。その後、千次郎は5月8日、将軍が上野へお成りの折、上屋敷に詰め、その帰途から病となりひどく苦しんだ。程五郎は、蛇の祟りではないかと察し、戸田川の辺りに羽黒山という寺があるそうだが、そこへ行って堂のほとりにある榎の空洞の水を貰おうと思って、汲もうとした時、釣瓶が切れて落ちてしまった。慌てていると、寺僧が出て来て、そなたが祈る病人は快気するはずはないと諭したのだが、何でもいいから水を貰いたいと言って、ようやく手に入れて帰った。千次郎に与えたものの、遂に5月15日に死んでしまう。苦しさに強く握りしめた千次郎の掌には両手の指で豆をこしらえてあったという。一方の程五郎は、その月の25日以来肩から腹へかけて痛みを感じたのが始まりで、日を追うごとに熱にうかされ、蛇のことばかりを口走って狂い廻っていた。とうとう走り出て、久保田侯の中間部屋に至り、さらにそこから菩提所である寺へ向かい、和尚にこう願った。「私は頭に蛇が取り憑いて苦悩に耐えられない。どうかお弟子となされ、髪を剃って下され」と言ったのを、和尚は発狂しているのではないかと思い、程五郎の父、浅草六軒町の組の頭取角十郎という者も檀家であったから、すぐに呼び寄せて事情を告げた。角十郎は程五郎を引き取り(程五郎は不行跡のため、家出していた)、色々治療を施した。中でも、本所の修験者は、何とも告げないうちに蛇の祟りのことや羽黒山へ走ったことまで解き示し、羽黒は神体が白蛇でいらっしゃるのに、却ってまずいことをしたと言ったという。かくて程五郎の病は日々に重くなり、6月1日に死んでしまった。〈『兎園小説』162ページ〉

実は、千次郎と程五郎が蛇を殺した時、手伝った栄吉という者があった。両人が死んだ由を聞くと、栄吉はただちに病気となり、これも危篤状態に陥ったが、しだいに平癒して、定火消(じょうびけし)として働くまでに回復したと伝えている。

これは蛇に罪はなく、明らかに人間の方が悪い。祟りなどというのはいかにも身勝手すぎる。自業自得と言われても仕方がなかろう。

>天明6年-1786-7月、江戸が前代未聞の大洪水に見舞われた。その夜、猿江辺りに住む女房が2歳になる子を抱いて、溺れながら半町ほど流された時、ふと巨木の梢に右の手をかけ、やっとのことで寄りかかって流されるのを止めた。だが、左手には子を抱えている。腰から下は水から出られない。こんな状態を知る人もないから助けてもらえる命でもない。無駄に肝を冷やすより母子ともに死んでしまおうと思って、大樹に取りすがった右手を放そうとしたところが、手は樹木に癒着したように感じられ、離れることができない。あれこれするうちに夜が明けて、助け舟が漕ぎ寄せる。舟に乗せられてから梢を見ると、大きな蛇が自分の右手を木の枝もろとも、何重にも巻いていたのだった。さては手が離れなかったのは、このせいだと思うにつけ、有り難いことこの上ない。舟に乗るうちに、その蛇は忽ち体をほぐして、行方も知らず去って行ったという。〈同、297ページ〉

この女房は舅姑に孝順であり、年来神仏を深く信じている者であるから、その応報かと噂されたことを馬琴は付け加えた。いかにも因果応報・勧善懲悪を物語の思想として徹した馬琴らしい。だが、単に蛇は自分が助かりたかっただけかもしれない。変温動物だから、体が冷えれば動けなくなる。逆に人間の体温が蛇を助けたとも考えられるのだ。

馬琴とともにこんな理屈を言いたくなるほど、何かの事象が起きれば必ずそこに何らかの因果関係を認めて合理化しなければ治まらないのが人間の悪い癖だ。

(G)
PAGE TOP