短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(113) 江戸の珍談・奇談(8)-1

14.06.22

千葉県は、猫の捕獲・引き取り及び殺処分の数が2010年まで全国1位だった。翌年殺処分が3位に下がったものの、今も全国ワーストレベルであることに変わりない。犬も、2011年に殺処分が14位と低かっただけで、常にベストテン入りしている。

因みにどのくらいの数かというと、殺処分のみ挙げれば、2008年に猫5971匹、犬3972頭であったものが、2012年に猫3166匹(全国5位)、犬1331頭(同8位)である(5月25日付「毎日新聞」千葉版による)。

これは大変だ。徳川五代将軍綱吉(在位1680~1709)なら、卒倒しているに違いない。綱吉が発布したかの名高い「生類憐みの令」なる悪法の影響はかなり甚大で、決して誇張ではなくこんな悲話まで残している。

八丁堀同心町に秋田淡路守という、五千石を領する旗本がいた。ある時、12・3歳になる若殿が、庭へ飛んできて塀の上に留まった雀一羽を吹き矢で射落し、殺してしまう。生類憐みの時分、見捨てがたいため、奉行所へ届け出た。吹き矢の紙反古を調べると秋田の名が確かに記してある。これが動かぬ証拠となり、秋田殿の知行所は召し上げられ、親子ともに八丈島へ遠流となってしまった。〈『江戸真砂六十帖』巻の三、『燕石十種』第1巻144ページ〉

現代なら、馬鹿馬鹿しいと一笑に付されるであろう。しかし、この種の事件が数多く伝わるところにこの法令自体というより、その運用に異常さを認めないわけにいかない。

そもそもこの法令が全国に公布されたのは、貞享4年(1709)である。第一条に捨て子の養育を謳ったとおり、犬猫ばかりが対象ではなく、有難くもその撫育は人類にまで及んでいた。続く第二条で、鳥類・畜類を人が傷つけた場合は届け出を義務付け、野犬に食物を与えるよう第三条で規定している。

実は、重要な点は第五条にあり、「犬斗(ばかり)にかぎらず、惣而(そうじて)生類人々慈悲之心を元といたし、あわれみ候ふ儀、肝要候ふ事」と、倫理規定としたのであった。

つまり、仁政を施すことを目指した綱吉は、万人に仁心を育めば世が治まるのだから、生類を憐れむ精神を養おうと考えたわけである。四書五経を自ら講ずるほど儒教に心酔していたように、その高邁な理想はよしとして、その方法に問題があった。だが、これには、綱吉の精神論を下々が理解できず、臣下が厳罰を以て対処したためだという捉え方がある。

臣下とは柳沢美濃守吉保と松平右京大夫輝貞を指す。荻生徂徠(おぎゅうそらい)『憲廟実録(けんびょうじつろく)』(正徳3年-1713-、「憲廟」は綱吉の諡号)には、「吉保輝貞が奉行の宜しきを失ひけるにや」と両者を批判的に書いてある(佐藤雅美『知の巨人 荻生徂徠伝』-2014年4月、角川書店)。しかし、これは徂徠の真意ではなく、『蘐園雑話(けんえんざつわ)』によると「君の過ちは臣下の受くべきことなり」とある由(同書)。要するに、生類憐みは将軍の失政だというのである。

どんな弊害があろうと、理想は変えない。綱吉は、病の床に儲嗣(ちょし)家宣のほか吉保・輝貞らを呼んで、生類憐みが100年後まで行われるよう必ず守り通せ、と遺言した。ところが、綱吉が死ぬと直ちに、人民の苦しみを憐れんだ家宣がこの禁を解いてしまう。正確には、宝永6年(1709)に犬小屋を廃止してから順次規制が廃止されて行った。

綱吉が将軍となった翌年からの三年間を「天和(てんな)の治」と称する。意欲的に政治改革に取り組み、古例を廃した。そればかりでなく、綱紀粛正・風紀矯正・賞罰厳明を標榜したため、次々に役人の改易・免職・処罰・削減が断行された。

先に紹介した荻生徂徠の一家もその煽りを食った口で、父方庵54歳、徂徠14歳の時に江戸御構(おかまい)を命じられている。つまり、江戸から退去しろということだ。正当な理由はない。医者であった方庵のお覚えを同僚が妬み、将軍につまらぬ告げ口をしたためだという。方庵が江戸に戻れたのは、ようやく71歳を迎える年になってからであった。しかも、御番医師に登用された上、200俵を付され、翌年に奥医師に上がるや、直ちに法眼(ほうげん)の位を授けられている。

晩年に至って福を得たのだからよいようなものの、将軍がこんな気紛れでは臣下の身が持たない。

(G)
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