短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(112) 菟原処女と海

14.06.11

「墓に生ふる木」で、菟原処女(うないおとめ)伝説についてご紹介しました。重複するところもありますが、改めてご紹介します。二人の男性から求愛された菟原処女がどちらか一方を選びきれず、自らの命を絶ってしまうというのがこの伝説の大筋で、様々に詠われ語り継がれました。

菟原処女伝説を最も分かりやすく伝えているのが、『大和物語』(平安時代)の「生田川」です。『大和物語』では、菟原処女は「津の国にすむ女」、男は津の国の「うばら(菟原)」と和泉の国の「ちぬ(血沼)」となっています。うばらとちぬは、年齢・容姿・人柄・女への愛情が同程度だったそうです。

娘が決めかねて苦しんでいる様子に心を痛めた女の親は、うばらとちぬに「水鳥を射当てた方に娘をさしあげましょう」と言います。男の一人が水鳥の頭、もう一人が尾を射当て決着がつきません。とうとう女は、「すみわびぬ わが身投げてむ 津の国の 生田の川は 名のみなりけり」という歌を詠み、生田川に「づぶりとおち入りぬ」―-命を絶ったのでした。

うばらもちぬも後を追い、一人は女の手をとらえ、一人は足をとらえて亡くなったとか。女の塚の左右にうばらとちぬの塚が築かれ、三人が並んで埋葬されることとなりました。

『大和物語』の「生田川」では、女が生田川に入水したことが明確です。水面に豊かな黒髪を漂わせている女の亡骸は、ミレイの「オフィーリア」を思い起こさせます。現実の世界では凄惨な入水も、文学の世界では美しく描かれます。『大和物語』では若い女が思いつめて入水し、二人の男も入水することで女に対する永遠の愛を示していることから、「生田川」の前半部分は男女それぞれの純粋さがストレートに伝わってきます。

ところで、菟原処女伝説は古くからあり、奈良時代の歌人、田辺福麻呂(『万葉集』巻9・1801~1803番歌)や高橋虫麻呂(同・1809~1811番歌)、大伴家持(巻19・4211~4212番歌)も菟原処女を歌に詠んでいます。田辺福麻呂と高橋虫麻呂は菟原処女の墓を見て作歌し、大伴家持は前者のいずれかに追同し、天平勝宝2年(750)5月6日、「興に依りて」作っています。

これらの万葉歌には、入水の場面は全く詠みこまれていません。菟原処女が入水したという伝説がいつから広まったのかは分かりませんし、もしかしたら歌を詠む際に三者とも「入水」というモチーフに関心がなかったのかもしれません。分からないことばかりですが、大伴家持に、菟原処女の入水を思わせるような表現がわずかにあります。

…父母に 申し別れて 家離り 海辺に出で立ち 朝夕に 満ち来る潮の 八重波に なびく玉藻の 節の間も 惜しき命を 露霜の 過ぎましにけれ…

死に場所を求めてさすらう菟原処女の目には海が映っていました。この歌は、家持が越中にいる時に詠んだ歌ですので、もしかしたらが越中の海を眺めていた家持が、菟原処女の彷徨する姿を幻視したのかもしれません。

菟原処女の墓は神戸市東灘区御影町東明にある「処女塚」だとされています。彼女が目にしたとしたら、おそらくそれは灘の海でしょう。たとえそうであっても、家持が日本海を眺めて、その海に菟原処女の死を思い起こしたとしたのなら、それだけで富山生まれの私としては十分ロマンチックですし、死を決めた若い女性が海辺に佇む姿を歌の世界に持ち込んだ家持はやっぱりすごいとも思うのです。

(し)
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