短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(102) 江戸の珍談・奇談(2)

14.02.25

江戸本所吉田町にお梅という老女がいた。方々をほっつき歩き、どこでも商家の店先を借りて腰を掛ける。しばらくすると、急病を訴えて座敷へ上がらせてもらう。畳に座ったが最後、様々なゆすりを働きかけ、金を出さないうちは帰らない。深川、品川、両国付近では、お梅婆さんの姿を認めるや、すぐさま戸を立て、簾を下ろした。度々奉行所に召し取られ、牢獄にも入れられたのだが、さすがの大岡越前もこの婆さんには手を焼いたという。

こんな話が江戸時代の随筆『江戸真砂六十帖広本』に載っている。これは戯作者岩本活東子の編んだ『燕石十種』に収録されたもので、この随筆集には、江戸時代の風俗、人情、珍談奇聞が満載されていて興味が尽きない。ほとんどが写本による稀書・珍書の類であるが、現在は中央公論社の活字版で読むことができる。ただし注釈は一切施されていない。因みに、「燕石」とは燕山から出る玉(ぎょく)に似るが玉でない石の意から、まがいものや価値のない物を指す言葉であり、言うまでもなく編者の謙遜である。

大岡越前が出たついでに、同書から二話紹介しよう。講談などで粉飾された巷説ではなく、かなり実態に近い話のようである。

神田白壁町に丹波屋九郎兵衛という大酢屋があった。当時の亭主は伊勢出身の男で、音羽という吉原女郎に血道を上げた挙句、心中未遂をしてしまう。奉行所での吟味の後、両人とも日本橋で三日間晒し者にされた後、非人の手下として下された。丹波屋は品川の松右衛門、音羽は善七小屋へと引き渡されたのである。情死を図って生き残った場合の処置として、これが手本となった。〈江戸真砂六十帖広本 巻之六―『燕石十種』第四巻、80ページ〉

心中して両人ともに死ねば、寺での供養は許されない。遺体は直ちに千住小塚原に棄てられた由。上記の処置は大岡越前が最初に行なったもので、「理屈よき仕置なり」と筆者による割注が付いている。

次に、大岡越前が唯一扱ったという刑事裁判である「白子屋阿熊(おくま)」一件の概要を掲げよう。

新材木町に白子屋庄三郎という御用聞きの富裕な材木屋があった。二人娘のうち妹は「お熊」といい、大変な器量よしでしかも洒落者である。その母も劣らず美人の誉れ高く、両人とも着飾ることに余念がない。夫庄三郎は気が弱く、妻の言いなりである。お熊に婿を取ることとなった。大伝馬町川喜田の番頭で、五百両の持参金付きである。だが、小男で気質も卑しいため、気位の高いお熊の気に入るはずもない。この男を嫌忌するうち、少し才覚のある手代忠七とお熊が密通してしまう。婿を除きたいが、身代が傾くほど浪費していたのだから、五百両を返す当てはない。そこで、母と相談した上、年季奉公の小女に教唆して婿の殺害を依頼する。ある夜、泥酔して帰った婿が寝入った頃を見計らい、お熊から渡された小刀で小女が婿の咽を突く。ところが震えて思うように手が動かない。起き上がった婿が小女を取り押さえ、家人を呼び立てる。もはや内密に済ませることはできず、奉行所へ届け出る。小女は牢舎申し付けられた後に磔、お熊と手代は獄門にかかり、父庄三郎は監督不行届きにより所払い(=江戸追放)、母は三宅島へ遠流となった。〈同、80ページ〉

『江戸真砂六十帖広本』によれば、「白子屋娘一ツ印籠の事」というタイトルに掲げてあるとおり、お熊は「一つ印籠」という異名をとっていた。「一つ印籠」とは、印籠一つだけを腰に下げる、江戸初期の伊達な身なりを指すという。ところが、講談本になると、これが母(常という)の渾名とされている。さらに、夫庄三郎の目を掠めて髪結清三郎と不義密通をしていたばかりか、婿を追い出すため、小女(きくという)を唆して、婿に不義を持ちかけさせたというおまけまで付く。講談本は恐らく、燕石十種本に収録される『近世江都著聞集』中の「新材木町白子屋お熊仇名の弁」「白子屋一族亡失の弁」に依拠したものであろう。同書での白子屋一件は詳細を極め、御仕置書(=判決文)まで掲載している。上記の刑罰の記事はこれに依った。また、どこまで本当か分らないが、ご丁寧にも、この事件を喧伝した当時の狂歌を載せてくれているので、一首紹介しておこう。

白子やを下からよめば親ころし聟(むこ)を殺さんたくみなりけり〈第五巻25ページ〉

市中引き回しの際、お熊は白無垢の下に黄八丈を着していたという。それ以来、巷の婦女子は黄八丈の小袖を忌み嫌い、着る者がなかった。このような反応に対して『近世江都著聞集』の編者は大きな間違いだと言い、「何んぞかれに因て是を捨べけんや、惜ひかな」と嘆いたものの、「されども、不義の女着ける服なればとてきざる心は、善にもとづく処か、猶々後をよく慎むべき事也」と結局態度を保留したままにした。

(G)
PAGE TOP