(193) 江戸の珍談・奇談(25)-21
20.02.24
孫助にはもとより何の頼りも願いもない。その日その日を無欲の人として送るばかりである。それでも、豪農がお師匠様と持ち上げてくれたため、不自由なく暮らしていた。三度の飯は大抵弟子の家で済ます。衣類も十分に用意してくれる。もし手拭いや鼻紙を買う時には、どこでも行く先で必要なほど買い入れればよい。「ご自身は一銭も持っていないのだから、代金は弟子らの内、誰でもよいから払わせてくれ」という。それだから、商人も心得ていて、敢えて孫助から銭を求めることはなかった。
日常の生活はこうである。稽古場に置き臥しし、昼の後は囲碁の会席とする。賭け碁を打つ人を集め、自分も混じって相手をする。当然、席料が懐に入るし、大勝した者からは余分の実入りもあった。これで小遣いに不足はしない。また、村中や近村に公事訴訟があると、書類作成を頼まれる。事件によっては数里の外まで雇われ、同道して公事に出ることもある。無論、それらすべてに相応の手数料を取った。
今となっては、門人も甚だ数多い。ご赦免に遭って江戸へ帰ると言ったら、村人たちも承知しない。「赦免の沙汰を知らない昔だったら致し方ないが、ありがたいことだから、そのまま捨てておくわけにはいかない、是非に」と無理に出立した。門人らは、「必ず再び戻ってきてください。一生安楽に暮らせるようにいたします」と約してくれたのだった。こう語りながら、鈴木を前にした孫助は今後の身の振り方をどうしてよいか迷っている。
知人の動向を尋ねられ、鈴木は世の中の推移を話して聞かせる。特に物故者に対して、孫助は感傷することしきりであった。
ところで、孫助の伯父石黒彦太郎が隠居し、その息子が新御番となっていたが、孫助の行方が知れたことを歓んだ彦太郎は、何とかして今一度世に出したいと願って、色々工夫しているという。これはさもあろう。自家から出た弟が、他家を継いでその家を潰したのだから、その子が存生中に、一場家を再興しようと運動するのは肝要なことだからだ。ところが、この彦太郎は御祐筆を務めた人でありながら、この種の事例に疎く、ひどく愚かなことを言うのだった。この時分、高橋作左衛門(名は至時(よしとき)、伊能忠敬の師。牢死した)の子がご赦免によって島から帰ると同時に、天文方手伝いとして臨時に十人扶持を貰って御用を勤め、そのまま本高に移行した例もある。だから、孫助も還俗させて、出役のある場所へ差し出したいと言っているのだという。
天文方という所は、浪人・百姓・町人であっても、その道に長じている者なら、御用に立つ部署であるものの、ここ以外でそんなことは認められない。それに、高橋の親類は皆権勢を持つ家だったからこういう処遇もあったので、そうでない者は不可能だ。孫助は取り立てた技芸もないわけでもないが、抜群というわけでもないから申し立てにくい。確かに近授流馬術が家伝のものとしてある。しかし、久しく馬に乗っていないから物の役に立つはずがない。たとえ願い出たとしても、今時馬術などでお召し出しという例は聞いたことがない。
彦太郎は、「何とかよい工夫はないものか。君は学問所出役だから、定めてこういう適当な部署も知っておるだろう」と鈴木にも直接持ちかけて来る。だが、そんな都合のよい前例はないのだから、高橋の特例であることを言い聞かせてから、鈴木はしばらく思案した。【続く】