【コラム】 盛久伝説
23.08.24
鹿児島県屋久島町牧野にある平盛久を祀った盛久権現社の由来記には、次のような経緯が碑文に刻まれている。
一、由来 平盛久は、伊勢国の平盛国の八男で、一族とともに平清盛に仕えていた。壇之浦の合戦で源氏に敗れて都にかくれていたが捕えられ、鎌倉の由比が浜で切られようとしたところ、かねてから信仰心が厚かったので清水寺千手観音の加護によって助けられたといわれている。
後、天皇を慕って南へ下り、建仁二年(西暦一二〇二年)硫黄島から屋久島に渡る途中、船の上で病気のため亡くなり、歌江川(現在のイテモゴ川)尻に流れ着いた。そこで先に着いていた一族は川口附近にていねいにほお(ママ)むったが、その後、神のお告げによって黒岩村(現在の牧野)に移しいくさの護り神として長く住民のすう拝するところとなった。盛久権現社は、屋久島の平家史を知るもっとも大事な史蹟であるうえ、観音信仰の権現としてたいへん有名である。しかし、社殿は長い間風雨にさらされて痛みもひどくなったので皆さんから尊い寄付をいただき新築することになったのでこれを記念して権現社の由来記を長くとどめ置くものである。
昭和五十二年十月吉日 春牧区
観世音菩薩が盛久という仮の姿をとって現れた神(=権現)ということで、盛久と観音信仰とが結び付く。文中にある由比ヶ浜での一件は、『長門本平家物語』を参考にしたものと思われるから、要約して紹介しよう。
主馬八郎左衛門盛久は、壇ノ浦の戦いから密かに京都へ戻っていたが、観音を篤く信仰していたため、等身大の千手観音を清水寺へ寄進し、千日詣でを人知れず行っていた。ところが、平家追討の命を頼朝から受けて探索していた北条時政によって捕らえられてしまう。鎌倉まで護送され、文治2年(1186)6月28日、由比ガ浜で斬首されるに至る。盛久は西に続いて南を向いて念仏を二・三十遍唱え、覚悟を決めていた。ところが、その首を打とうと振り下ろす太刀が三つに折れてしまう。次の太刀も目釘から折れ、首を打つことができない。その時、富士山から二筋の光が射し、盛久の身を照らした。
この不思議な現象を頼朝に報告すると、妻政子の夢に老僧が現れ、是非に盛久を宥免してくださるようにと頼むので、誰なのかと問うと、清水寺の辺に住む僧だと答えたという。頼朝は、この奇瑞に手水うがいをし、対面して盛久に事情を問う。盛久が、千手観音の造立や千日詣でについて打ち明けると、信伏した頼朝は、盛久の元の領地を安堵する下文を与えた。
帰洛した盛久は、直ちに清水寺の観音に詣でて救命の恩を謝すとともに、当寺の良観阿闍梨に由比ガ浜での出来事を話す。すると、その当日、急に千手観音が倒れて、腕が二つに折れたというのであった。(『長門本平家物語』巻二十)
盛久は、越中次郎兵衛盛次、悪七兵衛景清とともに必ず見つけ出すようにと頼朝が北条に厳命していたほどの重要人物であり、指名手配されてもいた。大胆不敵にも都に潜伏していたその盛久が逮捕され、鎌倉まで拘引されて来たのである。当然、罪を免れられるわけはない。それなのに、赦免されただけでなく、所領まで旧に復してもらったのであるから、頼朝がそうせざるを得なかったほどの何か特別の理由があったとしか考えられないであろう。因みに、盛次・景清ともに、源氏政権の下で頼朝から勧められた任官を拒否し、盛次は斬首を望み、景清は絶食して果てたという。
屋久島において盛久を権現として祀るに至った経緯には、『長門本平家物語』のみが伝える上記の観音利生譚が背景にあったことは明らかだ。だが、それだけではない。前掲の碑文には、「天皇を追って南へ下り」とあった。この「天皇」は、壇ノ浦で入水したはずの安徳帝と見られるから、安徳天皇生存説と観音利生譚とが合体した伝説によって盛久権現は成立したと見なければならない。
さらに、安徳天皇と密接な関係を示すのは、上掲の碑文中の「硫黄島」である。明治政府が各地の天皇陵を調査制定しようとした時、各地から安徳天皇陵の申請があった。その中で、壇ノ浦に近い長門下関の赤間神宮阿弥陀寺陵が「安徳天皇陵」と決められたが、薩摩硫黄島、因幡岡益、対馬巌原、阿波祖谷山なども「安徳天皇御陵参考地」とされていた。加えて、敗戦後の平家が琉球列島に移住したという説も古くから唱えられており、屋久島にも「平家城」と称する城が4か所もある。
しかしながら、学問的な冷徹さでは、「多数の平家落人伝説は、その九割九分までが史実性を欠いた虚構である」と否定され、「平家谷や平家の落人伝説は、民俗学の研究対象としては重要であり、また一般の話題としても興味深いものがある。しかしいかにそうであっても、それらは日本史の動向とはさして関係のない事柄である」(角田文衛『平家後抄』上)と、ほとんど取り付く島もない。
屋久島は月に35日も雨が降るといわれるくらい湿潤だ。シダや雑草に至るまで大ぶりで、本土産の1・5倍は優にある。どの葉も豊かな潤いに満ちて非常にみずみずしい。そんな現地の植生を実際に目にし、空気を吸っていると、盛久伝説にも一分の可能性があるかもしれないと信じたくなるから不思議である。 (G)
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