短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(212)江戸の珍談・奇談(28)-4 20230824

23.08.24

 長々と訳文を紹介してきたが、実は、『近世珍談集』に収載される「神田橋御門外細川侯茶碗屋鋪の謂れの事」が、落語「井戸の茶碗」と講談「細川茶碗屋敷の由来」の両方に亙る話を最も詳細に伝えているからである。

 落語の元ネタは、東随舎「茶碗屋鋪之事」とされてきた。『古今雑談思出草紙』巻之七(『日本随筆大成』第三期第4巻)に収める。天保11年-1840-ごろの成立らしい。『日本随筆大成』(昭和52年新版、平成7年新装版)の底本は、旧版の本文に基づき、国立国会図書館蔵本を参看して校定したものである。他に国文学研究資料館にも一本を蔵する。詳細な本文の対校は後日に譲るが、両者は、相互に微細な異文を含んではいるものの、全く同じ内容といってよい。「茶碗屋鋪之事」は、『近世珍談集』収録の本文に比べて簡素であり、要約文を読むような印象を受けた。

 例えば、『思出草紙』に登場する足軽が常々ほしいと思っていた仏像から金を得る場面では、仏像の台座が本体から離れ、中から200両の金子が出る。一方、『近世珍談集』の方は、門番の手に入れた大黒天の腹の中で音がするため、腹籠りだとばかり思っていると、「印籠の蓋にしたような細工」から金子が出た。現在演じられる落語と同じである。

 また、大金が入っていたと知らずに古金買い(『近世珍談集』では紙屑屋)に売った浪人が200両を受け取る代わりに古びた茶碗を差し出すところで、『思出草紙』には、その茶碗の素性を浪人に語らせている。「世に珍しき品なりとて、我父たるもの、幼少の折から申せしかと覚へしが」と言い、珍品であることを浪人は承知していた。だが、茶道を知らないから売り残しておいたと言って、足軽に与えるのである。茶碗の持つ本当の価値までは知らなかったらしい。一方の『近世珍談集』では、親の代から持ち伝えている物だとは言うものの、下卑焼の茶碗で全く無価値であると認識していた。それが伏線となって、後の逆転を効果的にするのである。

 さらに、足軽風情が井戸の茶碗を持っているはずはない、必ず盗んだものだろうと嫌疑を受け、太守の上聞に達する場面でも、『思出草紙』は実にあっさりと叙述する。糾明に及んで隠すことができず、足軽は事実を申し述べる。太守は大いに感じ、「下賤の者には珍しきその性美なるものなり」と言って、茶碗の代金100両を遣わしただけでなく、50石加増する。そして、足軽は侍分に取り立てられた。『近世珍談集』では、太守に召し出された門番に対して、同輩らが着る物やら大小やらを持ち寄って世話を焼く様子を縷々加えている。

 田沼意次に貸した茶碗が戻って来ない。『近世珍談集』では、それを憂え憤る太守を細川家の家老や用人らが諫める場面が描かれるが、『思出草紙』にはない。単に「細川が家老の中、智謀すぐれしものありて申しけるは」として、太守と家老らとの談合の経緯を記さないまま、茶碗の催促には及ばないとして、願書を公儀へ差し出すという結果のみ記す。「屋敷手ぜまに付、家中のものさし置候場所にさしつかへ難渋仕る間、何卒神田橋御門外の明地拝領仕り度候」と文面を真実らしく示しつつ、茶碗の件を楯に拝領のための詮議をするよう田沼へ迫ったとしたのである。

 なお、足軽の名を立身した後に「その姓名聞きしかど忘れたり」と、いかにも事実譚であるかのように『思出草紙』には述べてある。そこを『近世珍談集』では、「門番を勤める何某」とし、初めから物語の登場人物として位置づけていた。両者とも、具体的な人名は田沼と水野以外一切出て来ない。

 さて、この『思出草紙』を紹介した『日本随筆大成』の解題(北川博邦担当)では、「勧善懲悪・因果応報を説いた話が殆どすべてを占め、いかにも説教臭がつよすぎ、まま他書に見えたる話をも録しており、しかも行文にしまりがなく、話そのものもさして面白いものがない」と酷評していた。そこまで言うこともなかろうとは思う。ただ、以上の例からも、『思出草紙』などに類する内容に基づいて場面説明や心理描写を詳細に加えて完成度を高めたものが『近世珍談集』であるという推測に誤りはなかろう。

 ただし、『未刊随筆百種』に収録された『近世珍談集』の解題(三田村鳶魚)には「僅々三件の話題ながら、江戸の黄金時代とも思はれたる頃に珍談として、噂の種子となりたる事柄のさまを按じては、世帯人情を観察するに宜し」としか記されていない。しかも、三田村の拠った底本は不明だというから、確認のしようがない。

落語「井戸の茶碗」は、初代春風亭柳枝(1813~1868)が講談「細川茶碗屋敷の由来」から翻案したものだとされ、三代目柳枝の速記本(明治24年-1891-)が残っているという。現在口演される講談では、松平安芸守の元家来で浪人の川村惣左衛門が細川家の家来田中宇兵衛に古茶碗を礼として渡す。それが青井戸の茶碗と判明し、細川家から松平家への進言によって、川村は元通りの禄高で帰参が叶う。惣左衛門から細川の殿に渡った茶碗は、その後田沼意次の手に移り、その返礼として広大な屋敷を賜るという結末に至る。本エッセイ(13)-4の回で取り上げた『雲萍雑志』に登場する清廉な浪人の話に依拠したと思われる落語「柳田格之進」では、最後に浪人の仕官が叶うという結末に変わっていた。川村が帰参する一件も同様で、ある時期の演者によって改変されたものではなかろうか。いずれにしても、講談が何に拠ったのか、いまだ調べ得ていないが、この話が『思出草紙』に採録される時には、既によく知られていた街説だったろうと思われる。

 現在の落語「井戸の茶碗」では、具体的な人物名を与え、正直で廉潔な善人ばかりが登場する。仏像を買った細川家の勤番、仏像を紙屑屋に売った浪人、その二人の間に立って翻弄される紙屑屋の三者のやりとりが活写される中で、仏像を紙屑屋に売った浪人は娘との二人暮らしとし、最後に勤番に迎え入れられるよう設定し直した。それによって、仏像を磨いて金を得たことを下敷きに、くすんだ娘も磨けば光るという紙屑屋の仲人口に対して、「いや、磨くのはよそう。また小判が出てくるといけない」という落ちへと結び付けたのである。   (G)

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