短期大学部 総合文化学科

(206)江戸の珍談・奇談(26)-11 20220110

22.01.10

平安時代の武将で、頼光の四天王の一角を占める渡辺綱(つな)は、酒吞童子や羅生門の鬼を退治したという伝説でよく知られている。

もっとも、『太平記』巻三十二「直冬上洛事付鬼丸鬼切事」(旧大系、三、225~229ページ)によれば、綱は鬼の腕を斬り落としただけで、頼光の母に化けて腕を取り返しに来た鬼の首を打ったのは頼光自身だとされている。打たれた首は、太刀の鋒(きっさき)を食い切って口に含みながら空中に跳び上がっては、半時ばかり吠え怒ったという。

太刀の欠けた部分は、横川の僧都覚蓮の祈禱により呼び出された倶利伽羅(=剣にまといつく黒い竜)によって復元されている。その太刀は鬼切と称せられ、源氏累代の家宝とされ、坂上田村麻呂に伝わっていたが、伊勢大神宮の所望によって奉納し、さらに頼光が夢の告げによってそれを譲り受けた、と『太平記』は伝えている。

名刀と怪異は付き物で、馬琴『南総里見八犬伝』に見る村雨などの妖刀を引くまでもない。その価値を高めるため、ことさらに怪異と結びつけなければ収まりが付かない場合が多いようだ。

名刀にまつわる怪異は、平安時代から(いや、八岐大蛇退治で得た「あめの村雲の剣」を数えてよいなら、神代からということになるが)連綿と続き、江戸時代に入ってもなお名残を留めていた。諏訪備前守頼音の詩稿『対雪家稿』中にある「火車切月之記」という奇譚を書き写した『一話一言』を次に引こう(原漢文、要約して示す)。

家康の家臣に、上野の国三之倉に住む松平近正(原文は近政)という者があった。ある日、朋友の妻が死に、野辺送りをしながら郊外へ柩を進めると、突然空に黒雲が起こり、雷鳴が轟き、稲光が目を射る。風雨さえ激しくなるにつれ、皆、魂を消し肝を冷やしていた。その時、一片の黒雲が柩の上に降り、雲の中から手を伸ばすと、柩を攫って引き上げようとする。そこで、近正は太刀を抜いてその腕を斬り落とした。その腕を見ると、三本の爪の根に黒毛が生えている。爪の色は青磁の陶器のようで、先が鋭く尖っていた。俗に言う火車である。近正はこの奇怪な物体を家に持ち帰り、家宝としていた。(『一話一言6』巻四十一、81~82ページ)

これはその人の勇壮によるのでもなく、その太刀の鋭利によるものでもない、その太刀が宝刀だからだと言って、近正の家では久しく蔵していたという。

『対雪家稿』の作者である諏訪頼音は、家康の幕下に従って諏訪の城にいた頼水の孫に当たる。祖父頼水の家臣、諏訪美作守頼雄という者が近正の娘(実際は孫娘)を妻としていた。近正は、火車を斬った折の太刀と斬り落とした爪の一つを頼雄に遺す。その太刀を頼水が所望して次男頼郷(=頼音の父)に伝え、爾後相伝となった。今は頼音の蔵にある。爪の方はというと、頼雄の後裔である頼及がこれを蔵し、今なお存する。その後、頼音は爪一つを得て太刀とともにその来由を記して将来に残した。時に延宝3年-1675-12月下旬のことだと明記されている。戦国の余燼がまだ完全には冷めやらぬ時期でもあった。

ところで、後世「火車切」と称えられる近正の太刀は、藤島友重の作だという。藤島友重は、1300年代の初代から1680年代の7代目ごろまで続いた刀工の名家である。近正は天文16年-1547-の生まれであるから、6代目以前の作であるに違いない。

山田浅右衛門『古今鍛冶備考』(文政13年-1830-成)によれば、文明頃の藤島の作を大業物(おおわざもの)と分類する由。大業物は、刀剣の質を決める4等級のうち、最上大業物に次ぐ。とすれば、火車切の太刀は、4代目か5代目藤島友重の銘刀であったのかもしれない。

妖異の腕を斬り落としたという話の真偽は不明であるし、後付けのような気もするが、問うても意味がない。南畝は、作者の家系等が一流で歴然と判明しているものだから、頼音の一文に信を置いて全文抄出した、と但し書きしている。(G)

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