短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(205)江戸の珍談・奇談(26)-10 20211028

21.10.28

江戸中期の儒学者新井白蛾(はくが)『牛馬問』(宝暦6年―1756―刊)から次のような話が『一話一言』に引かれている。光仁帝宝亀11年―780―、奥州で叛乱を起こした残党を平定するため、河内権守紀是広が勅命を受けて赴いた。

征討役を拝命するに臨み、妻に「私にはまだ子がない。今お前は孕んでいる。7年の役目が終わったら帰って子を見るつもりだ。この薬師如来の尊容は多年私が信奉している。これを祈って男子を養育するがよい」と言って薬師如来像を与え、自分は奥州へと下った。だが、妻は男子を生んだ後、死んでしまう。この子が7歳の年に乳母に問う。「他の人にはみんな父母がいる。私の父母はどこにいるのか」乳母は涙を流しながら事情を語る。この子は奥州に下って父に逢おうと思い、河内を忍び出て尾州に至る。時に寒風烈しく吹きすさび、降り積もる雪にとうとう下津里の辺で死んでしまう。

一方、紀是広は、すでに7年の役を終えて故郷に帰る途次、子の死んだ日に同じ場所で宿を取った。旅亭の主を呼んで、何か変わった話はないかと問う。すると、亭主が言うに、「そういえば、今日、6・7歳くらいの男児が雪で凍えて道に死んでいました」是広が、「懐中に何か身元の分かる物はないのか」と問うと、亭主が「守り袋に薬師仏があります」と言う。はっとした是広は、その死骸を見たいと言ってその場所に行った。母親の胎内にいる時別れた子であるから、その顔をしらない。だが、妻に与えて別れた薬師仏を持っていたので、我が子であることを知る。悲嘆のあまり慟哭して共に死のうとさえ思う。そのまま亡骸を長福寺へ葬ろうとして、寺へ至り智光上人に事の次第を伝える。「親子の初対面がこれです。今生にほんの一度でいいから言葉を交わさせてください」と言って、上人にひどく泣き付いた。上人もそれはもっともだと言って、男児の死骸を壇上に横たえ、医王密法を修したところ、死体が自然と暖かくなり、たちまち蘇生して言葉を発して親子の名乗りを終えると、再び元の死体に還ってしまった。

その地を今に伝えて「反魂香の森」といい、浦を名付けて「逢わでの浦」と称している。〈巻29、306ページ〉

文中にある「反魂香」とは、中国の漢の武帝が李夫人の死後、香を焚いてその面影を見たという故事に基づく。「焚けば死人の魂を呼び返してその姿を煙の中に現わすことができるという想像上の香」(『日本国語大辞典』)を指す。歌舞伎の外題「傾城反魂香」や落語の演目「反魂香」を知る人もいよう。
『牛馬問』の筆者新井白蛾は、実際に阿波手の森・反魂香の森を訪れ、稲園山長福寺に宿っていた。文中の「逢わでの浦」を新井が「阿波手の森」としているのは、仁和3年―887―7月の大地震によって陸が隆起し、浦が失われたためである。また、河内へ帰った是広は、寺院堂塔を数多く造営し、それらが七載寺と呼ばれ、後には俗に七ツ寺と称された。
後年、二条帝の頃(在位1158~1165)、尾張権守に任ぜられた大中臣安長の娘が仁安2年―1167―5月28日に7歳で死んだ時、安長も紀是広の古事に倣い、一切経を書写してこの七ツ寺に納めた。近国の能書を集めて写させ、安元元年―1175―に始まり、治承二年―1178―に終わったという。その時の経が今に残ると新井は記している。(G)

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