【コラム】秋蝉
21.10.28
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10月初めの土曜の午後、夏の暑さがぶり返したような陽気に誘われて散歩に出た。いつものコースの途上にある小学校の裏手の森に、全く生気を失ったように鳴くアブラゼミの声が耳に入ってきた。周囲の山では全く聞こえない。この蝉一匹だったようである。
ただ、この時期に鳴いたとしても、パートナーは見つからない。土中から幼虫が出てくる盛りの時期に、子供の夏休みの自由研究を手伝って、アブラゼミを観察したことがある。幼虫を捕らえて羽化させ、それがオスかメスかを記録した。すると、出始めの時期に見つかるのはオスばかりで、メスは時期を遅らせて姿を現すという事実が知られたのである。恐らく、他種との交雑を避けるための知恵なのであろう。
だから、産卵を終えたメスが死に絶えた後に鳴き出すような周回遅れのオスに番ってくれるメスなどいるはずがない。孤独である。何のために出て来たのかという悲哀さえ覚えた。
さて、この秋の蝉は、俳人にとっても格好の材料となったと見え、多くの句に詠まれている。盛りを過ぎた後の蝉は、真夏の集団からはぐれたために一層その存在が際立つ。それで、短い命を惜しむかのように鳴く蝉のけなげさを詠んだ「秋の蝉残る命を鳴きにけり」(稲畑汀子)などの句が目立つ。
ところが、その中でも、正岡子規(慶応3-明治35〈1867-1902〉)の「秋の蝉」を詠んだ句は特異だといってよいかもしれない。残された18句のうち、半数は明治29・30年の詠に集中する。それまでは、「秋の蝉子にとらるるもあはれ也」(27年)、「啼きながら蟻にひかるる秋の蝉」(28年)などのように、時期外れに鳴く秋の蝉に対する憐れみを第三者の立場から詠んでいる。それに対して、明治29・30年に至ると、「死にかけて猶やかましき秋の蝉」(29年)、「あながまや死ぞこなひの秋の蝉」(30年)、「やかましきものニコライの鐘秋の蝉」(同年)と、夏の蝉のように耳を聾するほどではない秋の蝉でありながら、その耳かしがましさを憤るようになる。
子規は、明治29年に脊椎カリエスを発症し、やがて病状が悪化するにつれ、32年以降はほぼ寝たきりの状態となっていた。「この死にぞこないめ」と憤った相手は秋の蝉ではない。そう罵って、生きようともがく自身を鼓舞したのである。秋の蝉は自身の投影でもあった。しかし、死期が目前に迫ったことを覚悟すると、「病牀ノウメキニ和シテ秋ノ蝉」(34年)と、自己の運命を秋の蝉と同化させようとしていた。こうして子規は、明治35年9月19日、あたかも耳朶に響く秋蝉(しゅうせん)の候、36歳を目前にして、この世の苦界から脱して行ったのである。
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