短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

【コラム】秋来(き)ぬと

21.09.09


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夕暮れになると、コオロギが盛んに集(すだ)くようになった。これは、最も分かりやすい秋の訪れを示す兆候の一つであり、秋の代表的な景物として歌にも詠まれてきている。だが、『古今集』の時代には、秋の訪れを音によって感じ取る人もいた。

「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」(秋上・169)

秋部の冒頭に配された藤原敏行の有名な一首である。詞書から立秋の日の詠と知られるから、暦の上での夏から秋への微妙な変化を風の音によって気づかされたということであろう。

しかし、この鋭敏な感覚による発想は、当時相当に奇抜だったと思われる。『古今集』のなかでも、秋風を詠んだ30首余りのうち、季節の変化を風の音と関連づけたのは、この一首しか見られない。同趣の発想に基づく歌が他にもあったが、それは敏行の詠に及ばないため削ったのだとも考えられるかもしれない。それなら、遡って、奈良時代の歌集『万葉集』にも採録されていそうなものだ。しかし、『万葉集』中に詠まれた秋風の歌52例のなかに、同趣の歌は存在しない。萩の開花を促し、荻の葉にそよぎ、紅葉をもたらすという結びつきが多く、特異なところでは、待ち人の至ることを暗示する歌、例えば「君待つと我(あ)が恋ひ居(を)れば我(わ)が屋戸(やど)の簾(すだれ)動かし秋風の吹く」(巻4・488・額田王)などの恋歌はある。だが、風の音によって季節の変わり目を知るという発想で詠まれた歌は見当たらないのである。

もちろん、同様の発想で詠んだとしても、亜流にしかならないから、この一首があればよいといえばよい。それだからか、『古今集』以降『新古今集』に至る勅撰集を見ても、秋部の冒頭に置かれた歌は、『後撰集』から『金葉集』までの四代集が涼風を詠み、『詞花集』で稲田に吹く風とし、『千載集』と『新古今集』で荻の葉や葛の葉と組み合わせていて、どちらかといえばありふれた取り合わせに戻った感が否めない。

それほどに敏行歌の与えた衝撃は強く、以降、それを超える趣向を生み出せなかったのかもしれない。ただ、「おどろかれぬる」は、漢語「驚」に相当し、孟浩然の詩に見る「驚秋」などに拠るともいわれているから、敏行のオリジナルな発想かどうかは疑わしい。

それにしても、「風の音」とは具体的に何を意味するのだろうか。

単に耳をかすめる気流の音をいうのか、何かに当たる風の音から想像してよいのか。因みに、本居宣長『古今集遠鏡』には、「秋ガキタト云テソレトハツキリト目ニハ見エヌケレド ケフハ風ノ音ガニハカニカハツタデサ コレハ秋ガキタワトビツクリシタ」と訳出してあった。それでも、その「風ノ音」がそれまでの音とどのように異なるのか、何によってその音の違いが判別できたのか、筆者の乏しい経験では実感が湧かない。コオロギのような具体性が感じ取れないのである。

そもそも、実感に訴えかけることのない詩想が受け手の感興を催すものだろうか。いや、それは現代人には分らない感覚だが、その当時の人々には感得できたのだ、その証拠に『古今集』に入集しているではないか、と言われれば、一言もない。だから、全くの私見に過ぎないものの、この歌は、それまでにない秀抜な発想ではあったろうが、実体験ではなく文献などから得た着想を和歌の上に置き換えた観念上の産物であろうと受け取っている。

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