短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(200)江戸の珍談・奇談(26)-5 20200831

20.08.31

 先年亡くなった元プロ野球監督の野村克也氏は、豊富な読書から先人の名言や遺訓を自家薬籠中の物にしつつ、日々の勝負ばかりでなく選手の人格形成にも活用していた。それらは野村語録としてよく知られている。例えば、「金を残すは下、名を残すは中、人を残すは上」は後藤新平、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」は松浦静山である。

 特に、後者は『剣談』という剣術指南書からの引用だった。大田南畝『一話一言』(巻二十一)にも片島武矩(かたしまたけのり)『武備和訓』(享保2年-1777-刊)を一覧の後、抄出した記事が拾ってある。初学者のために武芸学習の大概を紹介し、その必要性を説いた書だ。

 「士たらん者は、かならず過言を慎むべし」で始まる一節を次に引いてみよう。

 先年、宮本武蔵の弟子と称する芝任という浪人が筑前へやって来て、知行400石を取って仕官した。その国の家老某が武芸を好み、自分の家来の若党数十人を彼に入門させ、二刀流を習わせていた。

 ある日、家老が芝任に「そなたの剣術について、鍛練の法は言うまでもないが、願わくはその奥儀とするところを見たい」と言う。すると、芝任は「我が芸に八人詰めという術があります。多分通常の腕の者が八人、八方から私を囲んだとしても、容易に切り抜ける術です」と答える。聞いた家老は、屈強の壮士八人を選び、「幸い、そなたの門弟である。これらを相手にされよ」と持ちかける。剣客はにっこと微笑み、「弱虫どもは、木刀で風を切って見せたら、皆逃げ散ってしまうでしょう」と言う。聞いた壮士らは大いに腹を立て、「今までは師弟、これからは仇敵だ。わずかの技芸を抱えて大国へ来て、吐き出す言葉も他にあるはずだ。構わないから打ち殺せ」と罵り、鬚を撫で腕をさすりながら争って進む。

 その中に、清水某という、そのころ九州に無双の怪力がある。三年竹の、周囲6寸もある節間が短く、風に曝されて火色になったものを根から引っこ抜き、長さ4尺8寸に捻じ切ると、自分の持つ3尺6寸の鞘袋を使って竹刀を作り、庭に躍り出た。それに続いて7人の勇士は、各々木刀を提げて後に付き従う。

 かたや芝任は、枇杷の木刀を八の字のように組み、真ん中に立っている。清水が芝任の正面に向かうと、その外の7人がその周りを八陣の方位のように取り囲む。それっと声をかけると同時に、八方から一度に奮迅して芝任を打つ。清水は4尺の竹刀を芋がらのように軽々と振り回し、力を奮って打ちかかる。芝任は飛蝶のように躍り、左右の二刀を働かせ、潜っては囲みを抜け、千変万化に相闘う。しかし、清水は竹刀を横斜めに構えながら芝任を塀際に追い詰め、振り上げた竹刀を打ち下ろすや、芝任の頭の鉢を斜めに、左の肩骨を打ち砕いて、大地に打ち据えてしまった。剣客は怪力に打たれ、たちまち息絶えてしまう。

 この有様を見た家老も興を冷ましていたが、一時ばかりして息を吹き返す。その後、4・5日を経て、ついに芝任は逐電してしまった。〈『日本教育文庫 訓誡篇中』―明治43年、同文館―433~434ページ〉

 「上手とは外(ほか)を謗(そしら)ず自慢せず身の及ばぬを恥づる人なり」という、ある一芸に名のある人の歌が末尾に添えてある。本当の上手名人は、どれほど謙遜しようとも、人は必ず拙いとは評価しないものだ、とも加えてあった。

 ここまでなら、大言壮語は身を滅ぼすという単純な教訓で終わりだが、この話に登場した清水という男は、実は、こんな教訓など屁の突っ張りにもならぬほどの猛者だった。続きは次回。(G)

PAGE TOP