短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(197)江戸の珍談・奇談(26)-3

20.05.14

 宝永2年-1705-、この年には「お蔭参り」(伊勢神宮への集団参詣)が大流行した。閏四月初め頃から参詣人が増加し、67歳から14~15歳までの婦女子が抜け参りをし、その数一日約3~4万人にも及んでいる。多くは子供で、大人は3割に過ぎないと、閏4月の日付のある、五畿内代官金丸又左衛門の注進状にあった(『一話一言』巻十八、76ページ)。同書によれば、10日から12日までのわずか3日間に大津から矢橋まで子供を載せた渡し船の数は、大船(一艘220~230人乗り)115艘、小船(一艘30~40人乗り)237艘であったというから大層な数である。勿論、別の船着き場を利用する者もあったし、陸路を行く者もいたから、実数は把握できていない。

 現在なら、さぞかし船宿や街道筋の商売人は儲かったものと想像されよう。ところが、お蔭参りは代参という認識であったから、船賃は取らない。さらに、参詣人には金銭、菅笠、草鞋などを提供し、牛車や帰りの馬までも無賃で乗せていたのである。
さて、この注進状には、以下のような奇談を併載していた。

 4月中頃、京都の富裕な町人に一人の娘があった。今年3歳になる。4月初め頃、この娘が乳母に伊勢参宮したいと言って泣く。乳母が騙しすかしてみても、ひどく泣くばかりである。この旨、主人に伝えると、3歳の子供が訳を知って参宮を求めるはずがない、お前が抜け参りをしたいからそう申すのだろうと叱り付けられる。だが、娘が余りに泣いてせがむので、乳母はやむなく抱いて参詣してしまう。娘の姿が見えないため、さては参宮したかと親が追手をかけ、粟田口で追い付き、二人を呼び戻した。一両日過ぎると、娘が突然患い死んでしまう。一人娘であるから、両親はことのほか愁嘆して旦那寺に葬る。法事などを執り行うと同時に、乳母に暇を取らせた。
 ところが、4月半ばになって、かの乳母が伊勢から帰り、娘を抱いて主人の家へやって来たのである。肝を潰した両親が、娘は何日に死に、お前にも暇を出したはずなのに、どういう訳だと尋ねると、お暇を下さったのは覚えていますが、お嬢様が亡くなったなんて知りません、様々せっつかれたので、参宮いたしまして、無事に帰ってまいりました、お嬢様に紛れもございません、と乳母が答える。余りに不審な話だから、旦那寺へ人を遣わし、墓を掘り返してみたところ、お祓いの品が埋まっているばかりだった。前代未聞の珍事であるから、洛中洛外から娘を訪ねて来る者があり、この話が伝わるや、知る人も知らぬ人も伊勢参宮に向かうようになったため、夥しい数となったのである。〈同書、76~77ページ〉

 死人の亡魂が生前の世界に現れるというありふれた話とは筋立てが逆である。死んで埋葬までした者が実は生きていたというのは、確かに奇談にふさわしい。だが、それにしても、乳母の供述のうち、暇を出されたことまでは覚えているという点がどうにも解せない。その時、娘の埋葬は既に終わっているはずだ。そこからどうやって伊勢参りをしたというのか。事実は小説より奇なりというが、これは、まさに論理的説明の難しい題材といっていいかもしれない。だからこそ南畝もここに採録しておいたのであろう。(G)

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