(194) 江戸の珍談・奇談(25)-22
20.03.16
「私に考えがある」と鈴木はおもむろに口を開く。
一場家断絶の折、彦太郎の兄直五郎には女子が一人あった。これに捨て扶持が与えられている(母、妻、娘にも捨て扶持があったが、皆死に絶えてこの姪一人が残っていた)。この捨て扶持を孫助に移し替えることを願い出て、二・三年経過してから、久しくお捨て扶持を無駄にいただいてきたことが畏れ多いので、この際本高に下し置かれ、いかなる軽いお役なりとも相勤めたいと申し出る。それ以上に、青山辺の水野某(植木師として名高い。小禄だった)のように、上席へ召し出されることは考えにくいものの、役に就いていれば場所高程度の補助が出るから、勤めを継続することは難しくあるまい。これが一場家再興の近道であり、これ以外に妙策はないと彦太郎に伝えたのである。だが、再び考えてみるに、女子の捨て扶持を男子に置き換える例があったかどうか不安は残った。
そこで、たまたま鈴木の縁者である遠山霞堂が訪れた折、その前例の有無を質したところ、近頃その例があると言って書き送ってくれた。その事例を取り扱った御目付は大沢主馬である。鈴木は、「物事の奇なること、人知の及びがたいことがあるものだ。それにしても、こんな珍しい計画は、不案内の者では埒が明かない。今、石黒彦太郎の子は新御番、その頭(かしら)は大沢主馬だ。御目付の時に取り扱ってさほど時日も経ていない。進達するに手間は要るまい。そればかりでなく、大沢は前から近授流馬術と同じ流派の免許を持つ。あれやこれや好都合だ。一日も早く決心しなければならん」とひそかに欣喜雀躍したのである。
さて、当の孫助は鈴木の家に一宿してから石黒方へ行くと言って出立した。そこで、先に預かっていた本箱や張り文庫などを一つ残らず返してやった。その後、再び訪れようと言いながらやって来ない。ご赦免の申し渡しには、髪を伸ばしてから出頭すると言っていた。それだから、あらかじめ鈴木が計画したことも、急には決行しにくくなったが、ひとまずその仮文書等は石黒方へ申し送るのがよかろうと考えた。
そこで、二十騎町に住む鈴木源八郎という孫助のいとこへ申し入れ、面談の上早く石黒に通じて願い出をするがいいと教えた。ところが、法体ではご赦免の報答さえできないから、まず髪が長くなるまで遠州へ立ち帰ると聞いたまま、孫助は今もって江戸に戻っていない。
その後、何年も経たないうちに、大沢は役替えとなってしまったので、一つの機会を失った。だが、青山下野守(=忠裕(ただひろ)、老中)、松平能登守(=乗保(のりやす)、老中)などへ申し込んだら、少し可能性があるはずだ。林大学頭(=檉宇(ていう)、儒者)、鳥居甲斐守(=耀蔵(ようぞう)、勘定奉行)、林式部少輔(=復斎(ふくさい)、後年ペリー提督との交渉を行う)、これらは皆松平能登守の縁で一場の門人であったが、今はすべて死に、式部少輔だけが残っている。この人は鈴木のいる学問所の総教(=教授頭取)であるから、何かうまい工夫があったら頼みたいと思っていた。しかし、浪人を起用した例がない。孫助は学問も心得ているが、申し出る程でもなく、以後どうしたか知らない。
ただ、二・三年を経て源八郎に聞いたところによれば、孫助は遠州に妻子があり、江戸へ出る意思はなかったとのこと。これでは一場家再興のことを考えるはずもない。ご赦免の申請もしたかどうか。心と言葉とあまりに食い違っていた。鈴木に隠していたのも、初めから江戸に帰る気持ちはなく、ただご赦免に遭った嬉しさと故郷の懐かしさに出て来ただけだったのである。
一場家伝来の黄金の観音像は中畠に預けたままだったそうだ。恐らく質屋に入れてしまったに違いない。ともあれ、観音は一場家を守ってくださらなかった。却って不幸ばかり起こったのは、仏罰であったかもしれない。在家に仏像など置く必要はないのだ。孫助から預かっていた本箱は邪魔だから売り払って法事の料にでもしようと何度か思ったが、十数年後に帰った本人に紙一枚失わずに引き渡すことができたので、そのことは大いに快く覚えたのだった。このように、鈴木はある感慨を持って数奇な運命を辿った孫助の話をひとまず結んでいる。因みに、孫助は能筆に加えて漢詩集も残し、滑稽を好んで「雲湖」と号していたという。