短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

【コラム】高木広正と徳川家康

19.09.11

松戸市の松龍寺に祀られている高木氏の祖である戦国武将高木広正は、徳川家康に仕え、幾多の戦役に従軍した。その最も顕著な例は、元亀3年-1573-12月、徳川家康と織田信長の連合軍が武田信玄を迎え撃った三方ヶ原の合戦で、家康が敗走する際撃たれた馬の乗り替えを高木広正が提供したというものだ。この逸話は、『寛政重修諸家譜』によれば、「御退陣のとき東照宮(=家康)めさせたまふところの御馬、鉄砲にあたりて斃(たふ)る。これにより広正が乗るところの馬をたてまつり、事故なく浜松城にいらせたまふ」とある(第319巻)。

ただ、備前岡山藩の碩学であった湯浅常山による『常山紀談』(明和7年―1770―完成)にこの記事は見えない。前掲『諸家譜』には、天正年間に入ってからも、長篠の戦い、長久手の戦いなどにおける武勲を記しているが、『常山紀談』のどこにも高木広正の名を見出すことはできないのである。

だからといって、広正に事蹟が認められないのでは決してない。家康から重用されたことは事実で、文禄元年(1592)には、武蔵の国比企郡、下総の国葛飾郡を転封加増され2000石となっているし、慶長5年-1600-の関ヶ原の戦いでは、高齢のせいで歩行も危うく眼疾まであったため、再三辞退したにもかかわらず、忍(おし)城の城番を任されてもいた(『諸家譜』)。だから、相当の勲功が認められていたことは間違いないのである。

ところで、前述の三方ヶ原の戦いでは、恐怖の余り家康が脱糞したという小心ぶりを伝える巷説がある。一方で、浜松城へ逃げ込んだ家康が、追手がかかるかもしれない状況の中、湯漬け飯を三杯平らげた後、「疲れた」と言って鼾をかいて寝たともいう(『常山紀談』)。こちらを信用すれば、豪胆この上ないことになり、どちらが家康の性格として真実なのか分らなくなってしまう。

家康の脱糞話は、やや悪意を含んだ講釈師の粉飾であろう。たとえ事実だったとしても、『常山紀談』に記載されることはなかったに違いない。「東照宮~せたまふ」と崇敬措くあたわざる姿勢で一貫しているところから見て、神君に不名誉となる怪しげな伝説を斥けようとする忖度が働いたことは想像に難くないからである。

 

因みに、広大山高樹院松龍寺は、広正の死を弔うため、松戸宿最初の旗本領主となった次男正次が元和元年-1615-に創建した寺院であり、当地へは慶安3年-1650-に引き移って再興された。正次は、今では戸定邸の建つ地に館(たち)を構えていたといわれる。

 

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