短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

【コラム】朝顔の花

19.07.18

<オープンキャンパス 体験授業のお知らせ>

春学期の授業も、あと一週間となりました。梅雨明けはまだですが、あちらこちらで朝顔が咲き始めたと耳にするようになりました。

朝顔はヒルガオ科の一年生蔓草で、旧暦七月頃に咲くので、「秋」の草花とされています。『万葉集』に詠まれる「朝顔」は、桔梗(ききょう)や木槿(むくげ)を指すと言われていますが、平安時代以降、例えば『源氏物語』に登場する「朝顔」は、現在の朝顔と同じものを指しています。もとの名(漢名)を「牽牛子」(けにごし)と言いました。奈良時代から平安時代初期に薬用として中国より渡来しましたが、花が美しいため観賞用になったそうです。

朝顔は、「顔」という言葉から人間の顔を連想しやすく、「朝の顔」という連想から寝起きの顔を表し、情交をも暗示したそうです。
・殿おはしませば、「寝くたれの朝顔も、時ならずや御覧ぜむ」と、ひき入る。〈『枕草子』「関白殿、二月廿一日に」〉
・されど明かしはてでぞ出でたまふ、(内大臣は、夕霧の)ねくたれの御朝顔見るかひありかし。〈『源氏物語』藤裏葉巻〉

また、花が朝開いて夕方にはしぼむことから、はかなさや無常の象徴ともされました。
・朝顔を 何はかなしと 思ひけん 人をも花は さこそ見るらめ〈『拾遺集』藤原道信〉
・消えぬまの 身をも知る知る 朝顔の 露とあらそふ 世を嘆くかな〈『紫式部集』〉

さて、江戸時代の『兎園小説』(随筆集、曲亭馬琴ら編、1825年)には、朝顔にまつわる切ない話が載っているので、ご紹介しましょう。

***

江戸の湯島手代町に岡田弥八郎といって、御普請方(ごふしんかた 江戸幕府の普請奉行配下の下役)の出方(世話をする人)をつとめる人がいた。この人(岡田)には、「せい」という名のひとり娘がいた。容貌もよく、とても利発だったので、両親の愛情も深かった。しかも、せいは和歌に心をよせ、下谷辺に住む白蓉斎という歌よみの弟子となって、去年十四歳にて朝顔の歌を詠んだが、よく整っていると師(白蓉斎)も喜んだ。その歌は、

いかならん 色にさくかと あくる夜を まつのとぼその 朝顔の花

その冬、このせいは、風邪をこじらせて、ついに亡くなってしまった。両親の悲しみは言うまでもない。一日中ただこの娘の事だけを思って暮らしていたが、月日がはかなく過ぎていった。

今年(亥年)の秋、娘(せい)の日頃親しんでいた文庫の中から、朝顔の種が出てきた。一色ずつ、これは絞り、あれは瑠璃(青色)など、娘の手で書き付けて置いてあった包みをみて、母親はなおさら、娘のことを思い出して、こうまでして印しておいてあるので、庭に蒔いて娘の志をも晴らそうと思って、小さい鉢に種を蒔いて、朝夕、水をやっていた。

いつしか葉も出て蔓も出たけれど、花は一輪も咲かなかったので、「すこし時期を過ぎてから種を蒔いたので、花が咲かないのだろう。そうは言っても、秋に、秋草が咲かないことはあるだろうか」と思って、いろいろ世話をしたが、全く花の蕾もない。

ある日、父の弥八郎は、東えい山の御普請場へ出た後、母は娘のことだけを忘れることができず、朝顔を思いながらうつらうつらと眠っていたが、娘の声で、「お母様、花が咲きました」と言う声に驚いて目が覚めた。あまりにも不思議に思ったので、朝顔のそばへ行って見ると、一輪花が咲いていた。ますます不思議に思って、夫の弥八郎が帰るのを待ちかねて、このことを話して、花も見せた。この花、昼夜に咲いて翌朝まで萎まないであったとか。

右は文化十二年(亥)のことである。花が咲いたのは翌年(子)のことである。 〈『兎園小説』第四集を参考に、適宜私に改めた〉

***

朝顔は亡くなった娘の化身か形代(かたしろ)と言えましょう。母の娘を思う気持ちが朝顔を咲かせたのです。

「朝顔やつるべ取られてもらひ水」(加賀千代女)や、「朝貎や咲いた許りの命哉」(夏目漱石)など、朝顔の短い花の命を愛おしむ俳句も残っています。今年も、はかなく可憐な朝顔の季節がやってきました。

※鈴木日出男『源氏物語歳時記』(筑摩書房、一九八九年)、秋山虔・小町谷照彦編『源氏物語図典』(小学館、一九九七年)などを参照しました。

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