短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(173) 江戸の珍談・奇談(25)-2

17.07.22

怪異談には、必ずといって言いほど語り手の誇張が含まれているものだ。聴く側に信じやすい者がいれば、それに一層輪をかけて広まることになる。そうなると一層、真偽を見抜くことは難しい。

『反古のうらがき』の筆者である鈴木桃野は、怪異に対して懐疑的な姿勢を保ち、決して鵜呑みにしない。その正体が何であるか見極めようとする科学的な態度を持っている点では、『耳嚢』の筆者である根岸鎮衛と共通する。であるから、創作の色を消した、むしろ真に迫った文章だともいえるのである。

自分(=鈴木)の叔父である酔雪老人は、加役の吟味方を勤めていたが、罪人をきつく尋問するというので、興奮しすぎたためか、休息所に入ってから、そのまま倒れてしまった。中風(=脳梗塞)を起こし、半身不随となったうえ人事不省に陥った。百薬を投じても効果がないまま、およそ一月余り過ぎた頃、春の長い夜であるから、皆看病に疲れ果て、とうとう自分一人の受け持ちとなってしまった。
臨終の前夜には、自分と甲麗と二人きりである。半夜に至って、辺りに凄まじく風が吹き荒れ、しばらくして止んだ。物静かになると、却って騒がしい時よりもさらに気味が悪い。二人打ち寄って世間話などをするうちに、屏風を引き回したその外で、突然激しい物音がした。一貫目くらいの固い物が縁側の板の上に落ちたような音である。
出て見ると何もない。怪しんで、手燭を取って細かく調べると、長年床の間に懸けてあった鯨骨の腰差し提灯の棹である。細い皮で釘に懸けてあったのが、自然と切れて落ちたのであった。思うに、下に絵具箱などを重ねてあった、その上に落ちたから、ひどく音が激しかったのだ。
こちらの思いもよらぬ原因には、少しのことでも魂消るほどに思うものだから、世間で人が死ぬ前に魂が脱け出るなどというのも、自分のようなことに驚いた時などに、そんなことがあると思うのではなかろうか。〈『反古のうらがき』12ページ〉

偶然を必然へと結びつけてしまえば、一編の怪談が生まれる。鈴木は無論そんなことはしない。あくまでも冷徹に事態を分析しようとする。その気質は、曽祖父から受け継いだものらしい。

自分の祖母が常に語った話では、加賀屋敷や旗本屋敷のない前は、すべて野原である。久貝、久志本、服部、巨勢、三枝、長谷川、これしかない野原であって、組屋敷の中では常に怪異があった。ある時は、鉦・太鼓を面白く囃し立てなどする。その音が西かと思えば東へと移る。誰一人見届けた者はない。
山崎という家では、夜な夜な猫踊りの足音が縁側に聞える。明くる日に見ると、矢を拭く手拭いを被った様子であった。またある時には、誰ともなく障子をさらさらと摺りながら縁側を往来する。開けてみても誰もいない。さらに、深夜に「塩、塩」と呼びながら売る声があったが、誰も姿を認めた者はなかった。
ある時、自分の曽祖父内海彦右衛門が、向いの門にある山崎へ行って、夜が更けてから帰ろうと立ち出たところ、門の扉に大きな眼が三つあった。その光が人を射る様は明星のようである。大胆な人であるから、「これは珍しい。一人で見るのももったいない」と思って、家に帰り、自分の大叔父内海五郎左衛門を呼んで、面白い物があるから行って見るがいいと誘って行ったところ、すでに一つは消えて、二つになっていた。
「さては消える物と見えた。皆消えるまで見届けよう」と言って、父子ともに瞬きもせず睨んでいる。すると、次第に光が薄れ、また一つ消えた。まもなくもう一つも薄くなって消えた。父子は笑って、「どうせこんなことだろうと思ったよ」と言って帰ったと、祖母様の善種院が物語られた。今の人よりは、みんな心が剛胆であったと戒められたのである。〈同、24ページ〉

『道聴塗説』を著した大郷吉則は、怪異の十中八九は作り話だと断じるが、鈴木は怪異の実在まで疑っているわけではない。風聞ではあっても、事実は事実として認める立場を崩さず、興味深い話を闊達な文章によって収攬してくれている。

(G)
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