短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(168) 江戸の珍談・奇談(23)-5

17.04.29

『塩原多助一代記』は、「義」や封建的身分制度といった前近代的なエートスが強調される一方で、近代を特徴づける資本主義経済的側面を内包した作品であったとも言われる(坂本麻裕子「明治修身教科書における子どもの〈労働〉倫理―二宮金次郎と塩原多助―」―名古屋大学大学院国際言語文化研究科、2012年)。確かに、一代にして巨万の富を築き上げる要因となった経済感覚を「勤倹力行」という徳目に結び付けて教えようというのが趣旨だといってもよい。圓朝は一代記を以下のように結んでいる。

多助は江戸表に置きましても稼業に出精しまして、遂に巨万(おほき)ナ身代となり、追々に地所を買入れ、二十四ヶ所の地面持とまでなり、本所に過ぎたるものが二つあり、津軽大名、炭屋塩原、と世に謡ハるゝ程の分限(ぶげん)に数へられ、其家益々富み栄えましたが、只正直と勉強の二つが資本(もとで)でありますから、皆様能く此話を味わへて、只一通りの人情話と御聞取りなされぬ様に願ひます。〈『三遊亭圓朝集』172ページ〉

節倹が着物を着て歩いているような多助の驚くような言動はいくつもあるが、特に知られた個所を紹介しよう。

多助は、命の恩人である炭問屋の山口屋善右衛門に拾われ、子(ね)に臥し寅に起きる(4時間程度)くらい一生懸命に働いて、年季が明けると自分の店を持つようになる。その働きぶりと心根に惚れ込んだ藤村屋杢左衛門の娘お花が多助の所へ嫁入りすることになった。御用達を務めるほどの商家のお嬢様だから、炭売り商売の生活を知らない。そこで、多助はお花に倹約の精神を教え込もうとする。お花の着物の袖が皆長いことを取り上げ、その袖があれば子供の着物が一着出来る、家ではこんな物はいらないと言って、振袖を持って来させ鉈で打ち切ろうとする。ところが、お花は惜しがるどころか、自ら進んでざっくりと切ってしまった。

落語だから無論のこと粉飾されたものだろうと思われよう。だが、どうやらそれに近い事実があったらしい。『宮川舎漫筆』に、筆者である政運自身が目の当たりにした実際の塩原太助の話が伝えられている。

時に文化3年―1806―、亀戸天満宮に祭礼があった時、塩原が言う。自分が一代でこれほど不足のない分限者となったことは、全く氏神の加護であるから、我が子も分限に応じて祭りをさせようと、最高級の祭り衣裳を整えて出した。そうして祭りが済んだら、その後この衣服を微塵に切り刻んで捨ててしまったため、番頭をはじめ妻もこれを止めたところ、塩原が曰く、こんな美服を置いたなら、子供らがあるにまかせて祝儀不祝儀に着ることになろう。これが奢りの始まりとなり、我が家の滅亡の元となる。これを切り捨てたのは無益のようだが、家の滅亡には代えがたい、と奢りを戒めたことは、まさに感服するところだ。また、この塩原には、これほどの富裕者となったのに、土蔵が一個所もない。番頭らが土蔵の二つや三つは非常の際に必要だからと勧めても、我が家は、今は何不足もないが、元々この薪炭を商っていたのだ。今この金子があるからと言って土蔵をこしらえ、品々を貯えることは、奢りとしか言えない。この炭や薪を見ろ、雨にも風にも曝して置きながら、我々ばかりが栄耀に浸っていることは、この品に対して申し訳が立たない、と言って、その身一代土蔵を造らなかったという。〈『宮川舎漫筆』343ページ〉

圓朝がこの随筆を読んでいたかどうかは知らない。しかし、塩原太助は文化・文政の時代から有名な人物だったようであるから、多くの逸話が伝わっていたろう。明治期の小学校教科書に取り上げられ、その後埋もれてしまったままだ。太助と多助の生き方は、消費生活に浸り切った現代社会に苦い良薬となるのではあるまいか。

(G)
PAGE TOP