(164) 江戸の珍談・奇談(23)-2
17.01.07
諺に「仏造って魂入れず」というのは、物の成就しない譬えである。魂が入るか入らないかは、細工師の精神にかかっている。すべて仏師なり画工なり、一心に精神を込めれば、霊妙を現すことはいうまでもない。例えば、上野の鐘楼堂にある彫物の竜が、夜な夜な脱け出て不忍の池の水を飲み、浅草の絵馬が田圃の草を食うというのは、昔話であるけれども、全くの嘘というわけでもあるまい。
こう前置きして、彫刻に精神が入るとはどういうことかを宮川政運は以下のように解説した。
息子の友である下河辺氏は、ある人形使いの人形を一箱預かった。その夜、家人が寝静まった頃、その箱の中がすさまじい音を立てたので、鼠でも入ったに違いないと、燈火を点じて改めて見た。だが、鼠の入った様子もないため、寝床へ戻って寝ようとしたところ、再び箱の中から打ち合う音が何度もする。
そのことを箱の持主に話すと、「それは使い手の精神が籠った人形であるから、いつでもそのように音を立てて、珍しいことではない」というのである。
そういうわけだから、もし敵役の人形と立役の人形を同じ箱に入れて置く時には、その人形同士が食い合って微塵に砕けるという。まさに精神が籠るとはこのことだ。だから、人間は万物の霊長だから、何事にも精神の入らないことはない。その理由は、仏師が子安の観音を彫刻したら、子育てを守るに効験があるし、また、雷除けの観音を彫刻したら、雷の落ちない守りとして効験がある。この観音は一体であっても、その守る所は別であって、共に利益(りやく)がもたらされる事実を見るがよい。その利益は、仏師の精神が凝集している所に観世音がお授けくださるからに違いない。仏師なり画工なり、その精神が入るとは、ただ無欲で利を求めず、ひたすら一心に利益があることを祈って彫刻するゆえに、その霊妙さも格別なのだ。
今時の職人にはその精神が入らないこともまた無理もない理由がある。今日の暮しにばかり気を奪われ、細工を早く仕上げて、手間賃で塩・味噌・薪に充てようとするものだから、細工の良し悪しに拘らず、手を抜くことばかりを手柄と考えている。そのため、他者には見えない所だからと、頭もなく手足もない不揃いの人や生き物を彫った駄作が多いのだ。これでは、どうしても魂の入るはずがない。〈『宮川舎漫筆』325ページ〉
魂の籠らない物ばかり粗製濫造している今時の職人への非難はさらに続く。
昔、彫物師埋忠(うめただ)嘉次右衛門の話を聞いたことがある。埋忠が言うには、「近頃は人間の性質が日々悪賢くなったので、どんな職人も細工の早い仕上がりばかりを工夫する。そのため、昔の細工の気質はまるでないから、どんな作り物も皆死んだような物ばかりが多い。昔の細工師は金銭に拘らず、自分の力一杯を発揮して彫ったので、霊もあるし妙もある」と言った。この埋忠が持ち伝えている品に、古い笄(こうがい)がある。至って粗末であるが、細工は絶妙だ。その彫りは、編笠を被った人物であったが、年代物であるから自然と編笠が擦り減っていた。ところが、その下に顔があり、眼や口が鮮やかに彫ってあったという。「この頃は、見えもしない所だから、誰も彫ったりしない。これこそ魂が入らないということだ」と埋忠は言っていた。〈同上、325~326ページ〉
これは驚いた。笄は女性用の髪飾りで、髷(まげ)などに挿す。花魁の頭を針山のようにしたあれだ。細くしかも薄い。編笠の下に顔や眼や口が彫ってあったということは、まず顔を仕立てておいて、その上に編笠を彫った薄板を張り合わせたのであろう。年月を経て擦り減らなければ、誰もその細工に気付くことはない。隠れた所に職人の魂が込められているとはよく聞く。一流のスポーツ選手も、見えない所で修練や努力を続けているという。見える所ですら労力を惜しむ凡人には耳が痛い。