短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(165) 江戸の珍談・奇談(23)-3

17.02.01

三遊亭圓朝の名作の一つに『塩原多助一代記』がある。裸一貫から薪炭を扱う豪商へと立身出世した男の物語であるが、江戸中期に実在した塩原太助を題材としたものである。

叔母を義母とし、その娘を妻としていた多助であったが、叔母と娘が不義密通を働き、邪魔になった多助を殺害しようと画策する。身の危険を感じた多助は、長年飼い馴らして共に働いてきた青という馬を残し、江戸へと出奔してしまう。その愛馬との別れの場面は特に有名であろう。

一代記が歌舞伎として上演されたとき、圓朝が五代目尾上菊五郎に演技の指導をしたという。芝居の初日、菊五郎から招待を受けた圓朝が、多助が青と別れる場面を見た後、「もう一工夫ありたいな」と思わずつぶやいた。隣席にいた菊五郎の知人が菊五郎にその由を告げると、すぐに圓朝を楽屋に招き、改めて教えを乞うた。

菊五郎は、「これ、青よ」と呼びかけて自分の悲運を嘆くところから、馬がもらい泣きしているのに気づき、「われ泣いているな」までの台詞をずっと馬の顔を見つめながら言っていたのである。そこを圓朝は実地にこう演じて見せた。「これ、青よ」という最初の台詞を、多助は手綱を持ったままで、馬の顔を見て言う。畜生と人間との違いがあるが、兄弟のように思っていると馬に話しかけるのである。次いで、馬から目を離してどこを見るともなく独り言のように後の台詞を言う。愚痴をこぼし、自身の身の上の口惜しさや恨めしさを、馬も自分自身も忘れて言うのである。そうして途切れ途切れにつぶやくうちに、手綱を持っている手の上に温かい雫がぽたりと落ちる。多助はそこで改めて馬の顔を見ると、青の目に一杯の涙が溜まっていることを知る。「おお、青よ。われ泣いてるだな」と思わずそう言って馬と向き合い、人間に物を言うように話しかける。

「馬の顔を見通しに見ていないで、中途から見ることにしたらどうでしょう」という提言に菊五郎は、はたと膝を打って礼を述べ、翌日から圓朝に教わった通りに演じたという。この逸話を紹介した森銑三は、次のような感慨を付した。

かように書いている間にも、私は涙に誘われて、幾度か眼を拭った。物を言わぬ馬も、人語を解するかに扱う。多助の言葉の全部が、あをにも聴きとられたこととする。そこに作家としての円朝の大きなはたらきがある。それをそのとおりにして見せた菊五郎の舞台には、ハンケチを眼にあてぬ観客は、おそらくなかったであろうと思われる。〈『明治人物閑話』―昭和57年9月、中央公論社―247ページ〉

この一代記が執筆されたのは、明治11―1878―年であった。その後、18年には速記法研究会から出版され、当時としては驚異的な12万部を売り上げたという(『三遊亭圓朝集』―明治文学全集10、1965年6月、中央公論社―所収、興津要の「解題」による)。

この時期は、『学問のすゝめ』に代表される「立身出世」が打ち出され、国全体が急激な西洋近代化を推し進めていた。それは政府の主導により、芸能界にまで及んでいたのである。上掲興津によれば、明治5年4月に教部省から発布された「三条の教憲」に従って、芸能界でも、「由来書」を提出させられたという。この教憲は、実学思想や合理精神をも加味した国教宣布の教憲で、その普及のために、神道家、仏教家、民間の有識者が動員され、芸能界にも協力が要請された。落語界でも、三代麗々亭柳橋(のちの初代春錦亭柳桜)を代表者として、六代桂文治、圓朝が輔佐となり、これに応えている。〈前掲書、406ページ〉

戯作者までもが、ペンネームを捨てて実録物に転ずるなど、各界の転向運動に抗するわけにいかず、圓朝は、派手な道具噺の道具いっさいを弟子の圓楽にゆずり、三代目圓生を襲名させ、みずからは、扇一本による素噺に転向して、時代に応ずる姿勢を示していた。例えば、講談の伯圓に対抗して、新聞種を高座にかけ、さらにいっそう時代の要求に応ずるべく、実録的な題材と取り組み始めたのである。〈同、407ページ〉

その風潮に乗じて生まれたのが『塩原多助一代記』であった。明治8年8月に20日余り上州旅行を敢行し、帰京後、『後開(おくれざき)榛名(はるなの)梅ケ香』(安中草三)を完成した。翌9年には、画家柴田是眞から、本所で、その昔、一代で財を成した炭商塩原太助の話を聞き、再び創作意欲に駆られ、太助の出身地沼田を調査すべく、8月29日から9月14日にかけて旅行を実施している。これが後に『塩原多助一代記』となって実を結んだという。〈同、407ページ〉

(G)
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