短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(162) 江戸の珍談・奇談(23)-1

16.11.22

『耳嚢』の著者根岸鎮衛と昵懇であった志賀理斎の次子に宮川政運(まさやす)という人物がいる。父理斎に似て文学好きであり、山水を愛し、江戸近辺の名所旧蹟は尋ねて至らぬ所なく、行けば必ずその見聞を筆録したという(『日本随筆大成』第一期第16巻解説)。この趣味人に『宮川舎漫筆』という随筆がある。実際に見聞した奇談などが気ままに書き留められ、学者のような考証を伴わないから、肩肘張らず気楽に読むことができる。以下、目に付いた話を紹介しよう。

昔、四ッ谷辺に某という歴々の旗本があった。平将門の嫡統で、将門の着した兜(かぶと)を家に持ち伝えているという。いつの頃の話か、ある裕福な者に金子を借り受け、その質として例の兜を預けたところ、翌日、貸主が現われ、その兜を返納したいと言う。用立てた金子は都合のつく時でよろしいから、早速にもお返しする。その理由は、この兜を預かったところ、昨夜、甚だしく家が鳴動して、家内の者が一人も寝られなかった。恐ろしいことだ、と述べたという。〈『宮川舎漫筆』巻之二―『日本随筆大成』第一期第16巻、269ページ〉

宮川の次男は、従弟である加藤家を継いでいる。この家の系図は、小身にしては珍しく詳しいもので、神代は天児屋根命(あまつこやねのみこと)から始まり、大織冠(藤原鎌足)の末裔として、非常に詳細を極めていた。宮川の叔父がひどく貧しかった時分、出入りの町医師高木貞庵という者があったが、文政の初め頃、この医師が系図を見て格別に懇望したのである。そこで金2両で預けたところ、翌年この医師がやって来て、系図を返上したいと言って来た。叔父は「我が家の大切な品であるから、いずれ金子の調達がついたところで受け取りましょう」と答えたのだが、医師は「金子はいつでも構わない。ともかく系図は返したい」の一点張りである。子細を尋ねると、昨年来医師の家内の者が次々と病気になり、あらゆる手を尽くしている。家相または方位でも悪いのかと占者に占わせたところ、何かあってはならない品が障りとなっていると言われた。差し当たり他所から来た品は系図以外にない。それでお返ししたいのだと言うので、叔父が受け取ると、不思議なことに、その後あの医師方の病人も全快したそうで、医師が礼を言いに来たという。叔父の方では、金子の返済が先延ばしになったのだから、こちらから礼を言うべきなのに、向こうからの礼はおかしなことだと話していた。〈同上〉

室町時代に成立したとされる『付喪神絵巻(つくもがみえまき)』には、「陰陽雑記云、器物百年を経て、化して精霊を得てより人の心を誑す、これを付喪神と号すといへり」と冒頭に記されている(国立国会図書館デジタルアーカイブ)。「器物百年を経れば、魂を得る」などという俗信は、この辺から出たものであろう。なお、出典とされた『陰陽雑記』は実在が確認されていない。

この絵巻は、器物は100年を経ると精霊を宿し、付喪神となるため、100年となる前に「煤払い」と称して古道具などを路地に捨てていたところ、99年目を迎えた器物がその慣習に腹を立て、捨てられる前に一揆を起こすという他愛のない絵物語である。

宮川の叔父が所蔵していた系図はいつ作った物か知れないが、真偽はともかく将門の兜となれば数百年は経ていよう。しかし、不思議なことに、所有する家には何の差し障りもないのに、何故無関係の所に変事が起こるのであろう。どうしてもその家から離れたくないという器物からのメッセージだとすれば、いよいよ手放すことは至難の業だ。兜や系図のその後の行方を知りたいものだが、案外納まるべき所に安座しているのかもしれない。

(G)
PAGE TOP