短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(151) 江戸の珍談・奇談(21)-7

16.02.20

登波の苦節12年を想像すれば、どうして自らの手で敵討ちを遂げさせてやらないのだろうと、同情心からじれったく思うかもしれない。敵討ちが武士階級に許可される法制が原則であったにもせよ、武士でない者の敵討ちも黙認され、むしろ孝子と賞讃されるのが一般の風潮でもあったのだから、この場合にも何らかの機会が与えられてもよかったように感じられる。だが、萩藩庁の措置の方が正しいのである。以下に引く鳶魚の見識によってその意味が了解されよう。

萩の藩庁には流石に人がある、復讐は盛事でないに極まつて居る、法具(そなは)り刑備(そなは)つて必然な処分が行はれるなら、決して復讐などがあるものでない、悪事を働いても刑罰を逋(のが)れる者があるから、敵討(あだうち)といふ事柄が生じて来る、そうして見れば為政者として心苦しい出来事なのである。萩の藩庁が犯人を彦山に捕へて、これを刑殺せんとしたのは、十二年の辛労と半生の操守を空しくするやうであるが、既に龍之進の居所を告知した処に、烈婦の苦節は見(あら)はれて居る。敢(あへ)て蛮気を充満させて刃(は)の白いのを血の紅(くれない)に対照させるばかりが能ではない、長門侯の家に人物があつたればこそ、由来復讐に付いて廻(まは)る一種の批難と遠ざかる事が出来た、当局者は円満に国家の法刑を施行し、人の子は遺憾なく純孝の志を遂げ得た、比類稀な復讐といふのは本件の如きであらう〈『江戸の噂』131~132ページ〉

安政3年10月、登波は、孝義抜群により、旌表(せいひょう、善行を褒めて広く世に示すこと)の状と米一俵を代官勝間田種右衛門から付与された。だが、話はこれだけで終わらない。これほど志操堅固に初志を貫徹した烈婦を賤民として取り扱うことを残念に思った周布政之助が、宮番であった登波を百姓身分に格上げするという申請を藩庁へ届け出たのである。周布案を相当の処置であるとは認めつつも、先例のないことであるから、甲論乙駁、議論は容易に決しない。結果、「我が邦は名分を重(おもん)じ、種族を別つのが国風である、故に今の場合、賤を放ち良に還(かへ)すの議を慎重にするのも、理義を重(おもん)ずる所以(ゆゑん)である」(鳶魚、同書112ページ)という反対論に傾いた。そこで、今一度周布案の取り調べを十分させたところ、登波は播磨の百姓であって、宮番を代々の職とした家に生まれたわけではない、幸吉も元来は阿武郡の農民が零落したものだから、本来の賤民ではない、従って、良民として差し支えはない、と決するに至った。登波が受賞した2年後のことである。鳶魚は、萩藩庁の「一大英断」とこれを称揚した。

『討賊始末』の中に、登波の事蹟を記した「烈婦登波碑」という一文が遺されている。周布政之助に代って松陰が稿を成したもので、そのために松下村塾を一月休みにしたほどの力の入れようであった。安政4年には仕上がっていたものの、登波の身分変更に関する議論が決着を見ないため、建碑も遷延しているうちに、藩論が決した翌年には周布が転任してしまう。その後沙汰やみになっていたが、ようやく大正5年-1916-に至って、山口県下関市豊北町にある滝部八幡宮の境内に松陰の遺文を刻んだ碑が地元有志の手によって建立された。

(G)
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