短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(150) 江戸の珍談・奇談(21)-6

16.02.03

藩政府は、萩目明与八、先大津目明松五郎を直横目(じきよこめ)茂助に直属させた上、九州彦山へ派遣して隠密裏に探索させた。すると、娘兔伊が彦山の宝蔵坊に嫁して以来、そこに縁が出来たため、龍之進は佐竹織部と改名し、折々彦山を訪れていることが間違いない事実と判明した。そこで、捕り方について、まず松五郎が豊前国へ渡海し、香春宿の目明利吉・久市、添田宿の目明利吉、彦山の目明好助、都合4人に依頼し、さらに下関の目明弥五郎からも、書状により頼んで置いたのである。

登波は、亀松が追放されたので、蟹の手を失ったような脱力感を覚え、途方に暮れていた。だが、第一にお上から手を下してくれることや、次に松五郎にも十分信頼がおけることによって、しばらく敵討ちの気持ちは落ち着いていたけれども、どうにも胸中から去り難く、事あるごとに松五郎をせっつくものだから、松五郎は、ただ時機を待つようにと言うしかない。

登波の悲憤が益々昂じるばかりなので、松五郎も色々言葉を尽くして慰めているうちに、5年の歳月が流れた。天保12年-1841-3月10日、敵枯木龍之進こと佐竹織部が彦山の麓において逮捕されたという一報が遂にもたらされる。彦山の好助、添田の利吉から下関の弥五郎宛てに通知され、それから先大津の松五郎へ通達されたものである。松五郎は早速萩の藩庁へ出て逮捕の経緯を報告した。

娘兔伊の在所に張り込んでいたところ、龍之進は、3月9日に政所坊を訪れ、翌日出立するという情報が入った。兔伊が召し捕り方の動向に気付き、急に出立させたようである。そこで方々へ手配していると、彦山領一の宮谷において、手下である新平が龍之進と道連れとなり、いきなり棒を揮って足を払い、頭を殴って倒した。他の者どもが腰の大小を抜き取り、姓名を確認する。出自を問うと、石州那賀郡都治村の生まれで、素性正しき者だ、と答えている。身柄は目明好助の私宅に拘引した。逮捕と同時に、渚という、織部の息子と見られる24・5歳の男が逐電したが、龍之進に尋ねても、悴(せがれ)ではなく、全く所縁はないと主張する。渚をわざと見逃したことを告げると、龍之進はその配慮に感謝する。さらに、京都中山大納言の家臣森石見宛てに佐竹渚の書状一通を所持しているが、お慈悲をもって取り棄ててくれるよう、また、借金の仲介書類・証文等を処分してほしい、娘兔伊に白木綿を送ってやりたいが、彦山にはいられまいから、母のいる所へ行くよう伝えてほしい、長州まで引かれて行ったら、とても命はない、所持の観音経を渡してくれ、などと縷々依頼され、好助はすべて請け合ってやった。

さて、ここからがクライマックスとなる。11日に添田宿の目明利吉方へ龍之進の身柄を送り出したまではよかったが、龍之進所持の荷物の取り扱いに手間取っている間に、とんでもない事態を招いてしまう。

手錠で締められ、猿繋ぎにして多人数で見張っていたにもかかわらず、14日午前2時頃、うとうとしていた番人が物音に気付き、周囲を探ると、龍之進が逃げ出すところであった。直ちに追跡したが見失い、ようやく升田村密ヶ嶽に逃げ込んだところを前後から捜索したところ、15日朝、中元寺村馬場という所まで逃れた龍之進が、最早逃げ場がないと判断したか、道中で自害した様子である。早速駆け付けて差し押さえたけれども、包丁で腹を縦に6寸ほど切り裂き、左手で腸を摑み出しているものの、まだ事切れていない。直ちに医師を呼んで応急処置を施したが、暮れ方に至って容体が重くなり、同夜午後8時頃落命した。包丁は、利吉方にあった菜切り包丁で、手錠は畑のへりに捨ててあった。また、観音経はどこへ落したか見当らない。探し求めるよう、その後も依頼したものの、遂に発見できないままになってしまった。

龍之進の娘兔伊は、当年28歳になり、7つになる娘があった。父龍之進が召し捕られたと聞き、娘を刺し殺した上、自害して果てたともいい、いずこへか逃れ去ったともいう。死体検分が行われ、関係者の供述と合致していたため、12月6日、御法に則って龍之進の死骸は斬首され、滝部村に梟首された。

こうして一件は落着したが、登波は、龍之進の自死を知り、一方では喜び一方では憤る。滝部村へ急行するや、死んだ首を睨みつけ、父弟や幸吉の妹松の仇を報ずる言葉を投げつけながら、短刀を提げたまま歯噛みしていたという。登波は、不注意とはいえ、役人らの不始末によって敵龍之進が自殺し、梟首されたことについて、「瓢箪(ひょうたん)の腐りたる様の者のみ」と口を極めて批難し、初めから分かっていたら、自ら出向いたものを、今となっても遺憾である、と後年に至っても悔いていたという。それでも、当時の御代官役張(ちょう)三左衛門至増が、この趣を藩政府に届け出たため、登波には一生扶持米が下されることとなった。

翌年4月、敵の梟首を知らせるべく、9歳になる養子を引き連れて、常陸国若柴宿の亀松の許を訪れた。ところが、惜しいことに親の市右衛門も亀松も、先年相果てたとのこと。家内の者へ挨拶を述べ、10日ほど滞留した後、帰途、日光山・善光寺等を参詣した登波は、その年の10月に角山へ帰着し、ようやく長い旅を終えたのである。(以下次号)

(G)
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