短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(139) 江戸の珍談・奇談(18)

15.08.15

大田南畝『仮名世説』(文政8年-1825-刊)に、奇妙な夫婦別れの話がある。

上州大原に、惣左衛門という鋳物師がいた。若い時から読書を好み、物覚えが大変よい。ある時、にわか雨が降り、道行く人が足早に駆けて行く中で、菰(こも)を被って頭だけ少し出して走って行く者がいた。その姿を見て、惣左衛門の妻が、「枕草子に『蓑虫のやうなるわらは』と書いてあるのも、こんな恰好かしら」と言ったところ、惣左衛門がこれを聞いて、「いや、それは間違いだ。源氏物語須磨の巻にある『ひぢがさ雨とか降り来て』という箇所に出ていることで、枕草子ではない」と反論し、二人が言い争う。とうとう、二書を取り出して確認すると、枕草子の「一条院の御乳母(めのと)に御ふみ賜はる」段にあって、須磨の巻にはない。そこで、惣左衛門は、枕草子を妻に投げ付け、そのままぷいと家を出てしまう。同国鳥山村の聟の所へ行ったまま帰らない。それから、妻は度々鳥山村を訪れて、色々言葉を尽くして詫びたけれども、惣左衛門は一言も返事をせず、そっぽを向いて妻の顔も見ない。聟の方でも、ほんの一日二日の滞在だと思っていたところが、年を重ねても帰る気配がない。周囲の心遣いに感謝を述べることすらせず、自若として我が家同前に振る舞っている。毎日、夕暮れになると、鍬を携えて裏の畑へ行き、いくつも穴を掘っておく。夜明けに至ってこれを埋める。これが変わらぬ日課となっていた。この穴は、夏は少なく、冬に多くなる。それは何かと問えば、夜中に起き出して小便をする穴だと答えたという。〈『日本随筆大成』第2期 2、293ページ〉

ほんのわずかの期間だと聟は思っていたろうが、惣左衛門は、何と24年も同所にあって、寛政元年-1789-に85歳で亡くなった。

南畝は、この話に「忿狷(ふんけん)」(すぐに怒り出し、人と妥協しない頑固者)という表題を付けて分類している。惣左衛門の性格とその行動に焦点を当てたものだ。出典の争いに負けただけで腹を立てて家出したばかりか、妻の謝罪にも耳を貸さず、聟の所で生を終わるまで過ごしてしまうのだから、確かに狷介そのものである。

だが、この話から、江戸庶民の持っていた教養の程度が垣間見られよう。南畝の分類から見ても、鋳物師という職人及びその妻が源氏物語や枕草子に親しむこと自体、何の不思議もなかった。町人の間で俳諧が大流行し、茶道や歌舞音曲を嗜んでいた時代である。遊女ですら、太夫ともなれば、琴棋書画の心得がなくては務まらなかった。登楼する粋な客の教養に応じて接遇しなくてはならなかったからだ。

平成27年6月8日、文系学部の廃止や削減などの組織改革を進めるよう文部科学省が国立大へ通達した。実用に供される知能、すなわち素早く物事を処理し結論を出す力が役に立ち、中長期的・客観的・相対的に物事を捉える知性を育てるはずの教養は役に立たないとされたのである。

明治維新以来、西洋の学問を摂取するのに忙しく、江戸時代に培われてきた豊かな教養を育む風土を浸食した。短期間に成果を求めることのみに汲々としてきた我々は、ここで明治のお雇い外国人の残した日本人への警句を今一度服膺する必要があろう。明治34年、ドイツの医学者エルウィン・ベルツが日本を去る一年前に行った講演の一節である。

私のみるところでは、日本人は科学をひとつの機械とみなし、一年にこれこれの仕事をした上で簡単にどこでも運搬し、そこで働かし得るものと考えております。それは誤りです。西欧の科学は決して機械ではなく、一つの有機体で、他のすべての有機体と同様、それが成長して行くためには、一定の気候、一定の雰囲気を必要とします。……諸君、この三十年間に西欧諸国は諸君に幾人もの教師を送りました。しかし、世の人は彼らを誤解し、学問の果実を売る商人とみなしたのです。外人教師から、今日の科学の新しい結実だけを取ろうとしたのです。教師はまず種子をまこうと考えたのに、日本人はこの未来の収穫を得る根元の精神を学ぶことをせず、教師からもっとも新しい成果を受けとることだけで満足してしまったのです。〈NHK特別取材班『ドキュメンタリー 明治百年』-昭和43年刊-214ページ〉

日本が近代国家として歩み始めてからまだ150年。江戸時代は270年も続いた。現在、教育の施設・方法・教師の能力等が格段に向上したとはいうものの、学問や教養に対する根本的な捉え方は、明治人とさして変わらない。ベルツの言うように学問が有機体なら、教養は有機体を生きて働かせる栄養分である。今のままでも、江戸時代の文化や教養の成熟に比肩するには、あと100年はかかるであろう。詰まらぬ妨害によって栄養補給を止め、有機体そのものを枯死させないことだ。

(G)
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