短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(68)『うつほ物語』の年中行事①―上巳

13.03.03

3月3日はひな祭りの日で、上巳(じょうし)の節供、桃の節供とも言います。古くは3月最初の「巳の日」に節供を行っていたので、「上巳」と呼んでいました。現在のような雛人形を飾る習慣は江戸時代からで、平安時代は、中国から伝来した風習、水辺での「禊祓」の行事や、そこから変形した「曲水の宴」を行っていました。

日本では、上巳に罪穢れを祓い清めるために人形(ひとがた)を使います。自分の身体の穢れを人形に移して川や海などの水に流したのです。鳥取の「流し雛」はその名残です。

さて、『うつほ物語』でも上巳の場面が所々に見られ、宮中だけでなく、貴族の私邸でも上巳の節供を行っていたことが伺えます。その中で最も注目されるのが、源正頼一家の上巳の祓で、なんと京都から難波まで出かけているのです。

かくて、弥生の十余日ばかりに、初めの巳の日出で来たれば、大将殿(正頼)には、上巳の祓へしに難波へ、…百五十石ばかりの船六つ、檜皮葺きの船具して、金銀、瑠璃に装束かれ、大きなる高欄を打ちつけ、帆手に上げて、白き糸を太き縄になひ、大いなる箔絵にて、船の調度に使ひ、すべて御簾どもなども縫物などして、船六つに、船子二十人、楫取り四人、装束選び、かたちを整へて、国々の受領ども、一つづつ御船の装束どもして奉りたるに…[②74頁]

正頼一家の乗る舟は、150石ほどの船6隻に漕ぎ手が20人と船頭4人。船は金銀・瑠璃で飾り立て、御簾の縁なども刺繍がしてあり、ゴージャスです。難波では大勢の受領たちが正頼一家を出迎え、彼らが宿泊するための場所を準備し、奉仕しました。船では船頭の唄う舟歌に笛を吹き合わせ、岸辺では万歳楽を奏しています。

それから、船ごとに祝詞をあげ、一斉に御祓をするころに、藤原仲忠が祓のための道具(人形)を贈りました。

>かくて、御船ども漕ぎ寄せて、御船ごとに祝詞申して、一度に御祓へするほどに、藤中将の、御祓への物取り具して奉る。[②78頁]

この場面では、明確に「人形」とは出てきませんが、上巳の祓がどのようなものであったかを、ある程度知ることができます。

上巳の祓を上手に物語の中に取り込んだのが『源氏物語』です。須磨巻では、光源氏が上巳に海辺で禊を始めると、暴風雨に襲われます。

弥生の朔日に出で来たる巳の日、「今日なむ、かく思すことある人は、禊したまふべき」と、なまさかしき人の聞こゆれば、海づらもゆかしうて出でたまふ。…この国に通ひける陰陽師召して、祓せさせたまふ。舟にことごとしき人形のせて流すを見たまふ…

須磨に退去した光源氏は、陰陽師を召して祓をさせます。舟に大げさな人形を積んで流すのを光源氏はご覧になったとあります。光源氏が歌を詠んでいると、穏やかだった海が豹変し、暴風と雷雨に見舞われました。恐ろしい夢を見た光源氏は、須磨に留まりがたく思います。この嵐は都とも連動していて、都も異常気象で政務まで滞るほどだったそうです。光源氏を追いつめた右大臣家や朱雀帝への天罰とも読みとれます。

その後、光源氏は明石入道と出会い、明石の浦に移り住みます。そして、入道の娘、明石の君と契りを結び娘が誕生するわけですから、上巳の祓は、物語の場面を大きく転換させるものであったと言えましょう。

ところで、3月3日を過ぎても雛人形を飾っていると婚期が遅れるという迷信は、流し雛に由来します。せっかく身代わりとなって穢れを引き受けてくれた人形を、そのまま手元に置いておくと穢れを祓ったことにならないと考えられたからです。

でも、今日、雛人形をしまい忘れた皆さん、落ち込まなくても大丈夫です。日本の年中行事は旧暦で行われていたので、旧暦の3月3日までは猶予期間(?)ですよ。

(し)
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