短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(60) 柴五郎の遺文(2)

12.12.12

柴五郎(1859~1945)の名を高からしめたのは、明治33年(1900)、北京駐在武官中佐であった時に遭遇した北清事変(義和団の変)での沈着冷静な行動である。

義和団の変とは、清国への侵略を阻止しようと蹶起した排外愛国団体である義和団が、各国公館や教会などを攻撃した事件である。清国のキリスト教信者や在留邦人など四千人余が、各国公館や粛親王府などに避難籠城し、援軍が到着するまで五十日以上に亙って抗戦した。柴は、その総指揮官を勤めていたのである。

各国連合軍との正面衝突を避けようとして、清国正規軍は、義和団を側面から支援するにとどめ、籠城する日本軍に対する攻撃も遠巻きに傍観していたのだが、牽制のために射程内に近づくことがあった。それを日本軍が誤射してしまったところ、白旗を掲げた軍使を派して陳謝するなど、細かい配慮を見せたという。

また、籠城が解かれた後、各国軍によって警備区域が定められ、日本担当区を柴五郎が受け持った。軍紀厳正を極め、中国人民を厚く保護したため、他の区域から日本区域に移住してくる者が多かったとも伝えられる。これらは世界各国の賞讃を浴びた。

以上は、石光真人『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』(中公新書、1971年初版)「第二部 柴五郎翁とその時代」の記述に従ったもので、以下に紹介する柴少年の記録も、本書第一部に掲載された柴自身の遺文に依る(ただし、残念なことに仮名遣いを現代風に改めてある)。

会津藩士の父佐多蔵は、280石取りの御物頭(おものがしら)として、本隊長の指揮下に会津軍を率いていただけあって、厳格な父親であった。母の躾も厳しく、兄弟姉妹の多い家族であったが、家内が騒がしいことはなかったという。因みに、五郎の兄である四朗は、後に号を東海散士と称し、日本初の政治小説『佳人之奇遇』を著している。

厳格な躾は柴家だけではない。藩の規律自体が厳しかった。寒くても手を懐にしてはならない、暑くても扇を手にせず、肌脱ぎをしない、道は目上に譲り、路肩に寄って通らねばならない、門の敷居は踏まず、中央を通るべからず、来客の前で奴僕はおろか犬猫を叱ってはならぬ、くしゃみ・あくび・げっぷをしてはならない、などなど、窮屈この上ない。

これほど厳重に家庭教育を施されれば、この時代であるから、さすがに道を踏み外すことはない。

近来、武士といわば、すぐ大声を発し、酒飲みて狼藉し、斬り棄て御免のごとく伝うるものあるも、はなはだしき誤りなり。かかるものは浪人の成れの果てか、やくざに類するものにて、武士一般を語るものにあらず。〈第一部、13ページ〉

柴少年は、武士としての自負と矜持をこうして培っていった。

ところが、4、5歳ごろの柴少年には奇癖があったらしい。毛のない頭を極端に恐れたのである。坊主頭がいかにしても恐ろしく、思い出すだけでも全身に粟を生じたという。

僧侶の頭にかぎらず、毛のなき頭はすべて恐ろしく、座頭、按摩はいうにおよばず、老人のたんなる禿頭さえも恐ろしく、あるとき路上にて竹村という禿頭の老人が余のうしろより歩き来たるを知り、例のごとく一目散にわが家へ走りたるところ、石につまずきて転倒せるあいだに、余を追いこしていけり。見れば以外にも後頭部に小さき丁髷(ちょんまげ)あるを認め、ほっとして泣きやみたることもあり。〈同、12ページ〉

(G)
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