(59) 柴五郎の遺文(1)
12.12.02
前回、会津戦争における新島八重の活躍を紹介した。今から145年前に起きた内乱の一つであるが、会津側の視点でその経緯を簡単に浚っておこう。
徳川幕府にとって、会津藩はいわゆる親藩であり、藩祖保科正之以来幕藩体制を支える最大の雄藩であった。
幕末期、欧米列強による東洋植民地化の嵐の中で、会津藩は、北海道北辺に侵入するロシア兵を排除する一方、京都守護職に任じられ、治安維持に当りながら長州を討つ。テロリスト集団といってもいい長州浪士らを摘発するため、会津藩の指揮下に新選組が結成された。朝廷からの篤い信任を得て、忠実にその命に従い、まさに藩を挙げて縦横に尽力したのである。
ところが、幕府が鎖国を解こうとすると、薩長の浪士が外国人へ狼藉を働く。果てに、英国艦隊に鹿児島を、米仏連合艦隊に下関を砲撃されるや、たちまち攘夷を翻し、討幕を唱え始める。そして、謎の死を遂げた孝明天皇に代って即位した幼帝(=明治天皇)から詔勅を下さしめ、徳川慶喜の断罪、会津の討伐を謀ったのである。
しかし、その前年に将軍慶喜が大政奉還を奏上すると、直ちに藩主松平容保は会津城下に立ち戻り、すでに謹慎していた。にもかかわらず、どうしても干戈を交えずに置かない薩摩藩の大久保利通や西郷隆盛らが、朝廷の重臣岩倉具視に武装蜂起を進言したため、軍事クーデターへと発展していくのである。
会津側からすれば、こんな理不尽なことはない。幕府の命によって京都守護職を奉じ、朝廷を守護した。その時の朝敵は長州である。しかも、一時は会津と同盟を結んで長州を排した薩摩が、こともあろうに今度は長州と組んで朝廷に取り入り、会津を賊軍扱いすることになったのだから。
西郷らのやり口は狡猾だ。盛んに挑発を繰り返し、こちらから手を出すのを手ぐすね引いて待っていた。とうとう業を煮やした幕府側が江戸の薩摩藩邸を焼き打ちし、挙兵の上入京を決定してしまう。
慶応4年(1868)1月3日、幕府軍・会津藩・桑名藩と薩長を主力とする官軍とが鳥羽伏見街道で激突した。戊辰戦争の始まりである。ところが、錦の御旗を見て恐れをなした慶喜が、兵士を見捨てて江戸へ逃げ帰ってしまったため、士気を挫かれた旧幕府軍は兵力を3分の1に減らしてしまう。結果、新政府内での討幕派が一層力を得、朝敵会津追討が発せられるに至った。
会津藩は、奥羽越列藩同盟を組んで徹底抗戦を挑んだものの、同盟諸藩の離脱や敗北に遭い、ついに孤立無援の籠城戦へと導かれて行く。
会津人の薩長に対する憎悪と怨恨はここから始まり、現在も宿怨となって消えていない。
たとえば、乃木大将の評伝『斜陽に立つ』の著者である、下関出身の作家古川薫は、会津若松の寿司屋で寿司を喫しながら、たまたま山口県出身であることを洩らした途端、「お代はいらないから帰れ」と店主に追い出されたという。また、歴史作家星亮一は、山口市で乗り込んだタクシーの運転手に「福島から来た」と言うと、「会津はこわいところだそうですなあ」とつぶやかれたというから、会津人の恨みは骨髄に徹している(晋遊社ムック『会津藩不屈の600年史』所収、星亮一「『会津藩』とは、何だったのか。」)。
さて、八重がスペンサー銃を撃ちまくっていた時、後の陸軍大将、軍事参議官となった柴五郎は、まだ数え年10歳の少年であった。その柴が晩年に残した回顧録によって、会津戦争後の悲惨な実態に目を向けながら、会津武士の保った矜持と高潔な精神を垣間見ることにしよう。