短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(44) 『近世畸人伝』―池大雅―(2)

12.07.02

愛すべき我らが奇人池大雅の師匠は、柳沢淇園(やなぎさわきえん)という。文学・武術を始め、諸芸十六般に通じ、仏教学まで修めていた。とりわけ画をよくし、人物画が世に名高い。

この人、客を招くのが大好きで、寄食する者は数知れなかったと伝えられる。(『近世畸人伝・続近世畸人伝』―平凡社東洋文庫、151ページ)

ほんのちょっと訪れただけの者でも、数年に亙って帰さないばかりか、博打の罪によって所払いになった者まで、獄吏に賄賂を渡して私邸へ引き取ってしまう。生涯ここに暮らせば、禁獄も同様だと言って、下にも置かない礼を尽し、その博打の腕前を披露させ、その技術の妙を楽しんだという。(同、153ページ)

こんなことを続けたために、親から譲り受けた2千石もの家禄を蕩尽してしまったらしい。池大雅もその蟻地獄に捕われた一人であり、大和へ向った折に、路銀が尽きてしまったため、かねて知っていた柳沢邸を訪れ、寸借を頼んだところが、門を閉じて帰してくれない。すると、柳沢の家臣から主人の奇妙な病気を諫めてくれと頼まれる。大雅が、諫言を聞き入れてくれなければ帰ろうと言うと、柳沢は、諫めにも従わないし、帰しもしないと答え、ますます門を固く閉じて警護してしまった。大雅は、とうとう裏の垣根を越えて逃げ帰ったという。(同、152ページ)

こうなると、もはや奇人というより変人に近い。奇人という点では人後に落ちない大雅も、師匠の奇行にはさすがに閉口したろう。

師弟関係といえば、辰野隆(たつのゆたか)と小林秀雄(こばやしひでお)との間にも面白い話がある。坪内祐三『父系図』(2012年3月、廣済堂出版)から拾って示そう。

東大のソクラテスと称された辰野隆は、明治21年生まれのフランス文学者である。法学部を卒業後仏文科へ再入学した異色の学者で、門下生には小林秀雄、渡辺一夫、三好達治、今日出海など、錚々たる名が連なる。

坪内が引いてくれた弟子小林秀雄の一文「ヴアレリイの事」によれば、小林には本を読む時に「無暗と煙草をすつて頭の毛を挘(むし)る奇妙に執拗な悪癖」があった。それで、1ページごとに煙草の灰と髪の毛が挟まることになる。無論、辰野先生から借りた本にもそれらが残る。こんな明瞭な証拠があるから、読まない本を読んだと言って返せない。辰野は小林から本を受け取ると、パラパラとやって掃除したそうだ。たまたま痕跡が見当たらないと、読まなかったなと言う。家でよく払ってきた奴ですなどと言い訳しても信用してもらえない。「さうなるとこつちも馬鹿々々しいから、勇敢に汚してお返しする事にしてゐた」が、「今でも先生のとこのヴアレリイには全部、先生の払ひのこした私の頭の毛がはさまつてゐる筈である。想へば感謝の念に堪へない。」と師の恩に万感を込めて結んでいる。(161ページ)

小林はヴァレリーの本を読みたくて仕方がなかった。だが、東大の図書館でさえも関東大震災で原書を焼失し、わずかに師辰野の手元に残るだけだったのである。

夏目漱石には、原稿用紙に鼻毛を抜いて立てる奇癖があった。弟子の内田百閒(うちだひゃっけん)は、『道草』の書き潰し原稿をもらい受け、丁寧に植え付けてあった鮮やかな残骸を見つけると、「先生の苦吟の模様を想見して、大事にその毛を蔵つておい」た。「世に遺髪と云ふこともあるので、私はこの毛をおろそかには考へない」というほど師に対する強い思慕の念を吐露してやまない(内田百閒「漱石遺毛」―『私の「漱石」と「龍之介」』ちくま文庫、32ページ)。

鼻毛でも師匠のものならありがたがってくれようが、小林の場合は弟子の悪行だ。大切な本をフケにまみれさせて、よく文句を言わずに許してやったものだと感心する。

因みに、辰野隆『忘れ得ぬ人々』(昭和14年10月、弘文堂書房)は、名著の誉れ高い。こちらにも、東大の恩師上田万年とその知友齋藤緑雨にまつわる逸話が紹介されている。ぜひフランス装(本を開く側の紙を裁断してない装丁。ペーパーナイフなどでページを切り開きながら読む)の古本で味わってもらいたい。

(G)
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