(30) 本居宣長(1)
12.01.25
3月は卒業式のシーズンだ。式歌として必ずといってよいほど歌われる「蛍の光」の原曲がスコットランド民謡“Auld Lang Syne”であることは、よく知られている。この旧友との再会を喜ぶ歌に稲垣千頴(いながきちかい)が詞を付けたものが、明治14年-1881-『小学唱歌集初編』に「蛍」というタイトルで掲載された。当初は式歌というわけでなく、「おぼろ月夜」「春の小川」「冬景色」などと同列の唱歌であった。
現在は1・2番までしか歌われない。その理由は、3・4番の歌詞を読めば直ちに了解されよう。3番は「筑紫の極み、陸(みち)の奥、海山遠く、隔つとも、その真心は、隔て無く、一つに尽くせ、国の為。」であるから、国のために粉骨砕身する臣民の意気を感じていると、4番に至り、「千島の奥も、沖縄も、八洲(やしま)の内の、護(まも)りなり、至らん国に、勲(いさを)しく、努めよ我が背(せ)、恙無(つつがな)く。」と来て、おやおや、万葉時代に防人(さきもり)として辺境の地へ赴いた夫に擬して、出征する夫を送り出す妻の歌だったかとようやく知られる。
「われは海の子」(明治43年-1910-)も、7番「いで大船を乗(のり)出して 我は拾はん海の富。いで軍艦に乗(のり)組みて 我は護(まも)らん海の国。」という軍国調の歌詞により、すべてが歌われることはほとんどない。
「蛍の光」に話を戻そう。この詞が以下の故事「蛍雪の功」に拠ったことは、これまた誰もが知るところであろう。
中国晋代(265~419年)の車胤(しゃいん)は貧しくて灯火の油が買えなかったため、夏は蛍を集めて薄い練り絹の袋に入れ、その光で読書した(『晋書(しんじょ)』車胤伝)。また、同時代の学者孫康(そんこう)は、冬に窓から入る雪明かりを頼りに文字を追った(『初学記』二に引く『宋斉語(そうせいご)』)という。
勤倹力行や刻苦精励を美徳として讃える明治期の小学読本や唱歌に好んで繰り返し用いられた故事である。佐々木信綱の詞による「夏は来(き)ぬ」(明治29年-1896-)にも、3番に「橘の薫(かを)る軒端(のきば)の 窓近く 蛍飛び交(か)ひ おこたり諌(いさ)むる 夏は来ぬ」とあるとおり、蛍は、怠け者を叱咤してくれる存在でもあった。
このいかにも道徳臭芬々たる話に対して、江戸時代の国学者、本居宣長(1730~1801)は、中国人の名誉欲に駆られた作り話であるとしている。寛政5年-1793-に起稿し、没するまで書き続けた学術的随筆『玉勝間(たまがつま)』(寛政7年-1795-~文化9年-1812-刊)によって、その理由を原文のまま示そう(適宜漢字を宛て、漢字を仮名にした)。
その故は、もし油をえ得ずは、夜々(よるよる)は、近隣りなどの家にものして、そのともし火の光を乞ひ借りても、書は読むべし。たとひその明かり心に任せず、はつはつなりとも、雪蛍には、こよなくまさりたるべし。また、年のうちに、雪蛍のあるは、しばしの程なるに、それがなき程は、夜は書読までありけるにや、いとをかし。〈十二の巻「雪蛍をあつめて書よみけるもろこしのふること」〉
いくら貧乏で油が買えないからといって、蛍を集めたり、雪に反射する月明かりに頼ったりして読書したなど、とうてい信じられない。本当に書を読みたいのなら、近所の灯火を借りることもできる。第一、蛍や雪のない季節には、夜に読書をしなかったというのか、と宣長は嘲笑している。
「蛍雪の功」は、唐代の類書(多くの書物から抜粋し、利用しやすいように分類編集したもの)『蒙求(もうぎゅう)』に「孫康映雪(そんこうえいせつ)」「車胤聚蛍(しゃいんしゅうけい)」という四字句にまとめられ、幼童用の教科書として用いられたことも相俟って、人口に膾炙するに至った。平安時代にはすでに日本へ伝わっている。
どうせ教条主義の押し付けだから、荒唐無稽で大袈裟なことを言うのは仕方がない、などという寛容な態度を宣長は決して許さない。真正面から受け止め、現実的で常識的な思考によってその嘘を暴こうとする。そして、その思想そのものを排除しようと努めるのである。