短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(29) 新井白石(2)

12.01.13

遠江の国篠原の浦に、紀伊の国船津村の船が難破した。近隣の者どもが集まって船を打ち壊し、積荷を掠め取っていく。生き残った船頭が脇差を抜いて、盗人の一人を傷つけた。

この事件について、評定所の議論では、積荷を盗んだ者はあまりに多いため、いちいち捕えて罪に問うわけにいかない。しかし、船頭の方は、実際には盗まれていない金を奪われたと偽りを訴えている。これは首を刎ねるべきだと言うのであった。

諮問を受けた白石はこう具申する。

いくら数が多くても、盗みを働いた者を許すわけにはいかない。判例に従って首謀者は死罪に処し、その時盗みに加担した者の住む浦には、家ごとに罰金を課す。その金をもって被害に遭った船頭への補償とすればよい。船頭が金を盗まれたと主張したのは、積荷の行方は捜索してはくれないだろうが、金なら放ってはおかれまいと判断したからであろう。下賤の者がこのように思量することを深く咎める必要はない。第一、物を盗んだ方と盗まれた方と、どちらに罪があるというのだ。

白石の起草したこの建議書は、将軍家宣死去の後採用されている。

また、越後の国村上領、85村の百姓4116人が訴訟に及んだことがあった。その前年、松平右京太夫輝貞が村上の城を賜った時、三嶋・蒲原等の郡4万石を擁する在所の百姓らが、それまで私領として分離されていた村上をも御料(=幕府の所領)に組み入れてもらいたいという旨を訴えたのである。それが聞き入れられないと見るや、代官の命令にも従わず、年貢も納めないばかりか、それを売り払ってしまったという風聞まで加わっていた。

今この事件の詳細な経緯は省略する。『折たく柴の記』(中)によって、この事件に白石がどう対処したのかを紹介するに止めよう。

勘定奉行から回ってきた文書には、死罪、追放、禁獄、田畑・屋敷の没収等を含む厳罰をもって臨むつもりであることを記した代官所の注進状が添えてあった。そのなかには、年貢米を売り払ってしまったという風聞を真に受けた記述さえあったため、白石は、翌日直ちに封書を献じている。その概要は以下のとおり。

そもそも天下無告の人民は、奉行所以外のどこへ訴えればいいというのか。それなのに、最初の下知に従わないからといって、しかも風聞の説にまで躍らされ、反逆罪を適用するとは、人民の父母たる幕府役人のすべきことではない。もし、本当に謀反の意思があるのなら、年貢米を売って兵糧まで失うような真似はすまい。百姓は、村上の領主に帰属したいと願っているだけだ。お上に背こうというのでなく、堪えられない事情があるから訴えているのであろうから、むしろ、その事情にこそ耳を傾けるべきである。

こうして、温柔な役人による取調べが行われると、果たして大庄屋・小庄屋の不法が告発されるに至った。一昨年、代官が80日間滞在した折、その用度費用として950両もの大金を村民に負担させたことを始め、およそ申し開きのできない積年の悪事が次々に露見したのである。結果、百姓らの訴えが受け入れられたことは言うまでもない。

当時、死罪を適用せねばならない重大犯罪は、奉行所だけで裁許することはできず、必ず老中の判断を仰ぐことになっていた。白石のもとには、こうした難事件がいくつも寄せられたことであろう。自伝中に取り上げられたものを見ただけでも、人民の不利益にならない処断が必要だと繰り返し主張する白石の公正な姿勢が十分に伝わってくる。白石の事蹟の一つとして挙げた公正な裁判とは、これらの事例を指す。一般に、8代将軍吉宗の代に「公事方御定書(くじがたおさだめがき)」が制定され、公平な裁判が行われるようになったとされる。だが、それは白石が先鞭をつけたものだった。圭角鋭い白石に圧倒された老中も、この功は捨て置けず、次代へ引き継ぐとともに、制度上の整備に資してくれたのかもしれない。もし白石が奉行職にあったとすれば、確実に名奉行の声名をほしいままにしていただろう。だが、ついに白石が人民からの称賛を浴びることはなかった。

一方の大岡越前守忠相は、将軍吉宗の信任厚く、江戸町奉行を20年余に亙って勤め上げた能吏である。行政官僚として抜群の才を発揮したことは確かだが、裁判官としての業績はほとんど残っていない。博文館版『大岡政談』の解説(尾佐竹猛(おさだけたけき)執筆)によれば、大岡の裁いた事件は、「白子屋阿熊(しらこやおくま)」一件だけだという。大岡政談随一と喧伝される「天一坊」でさえ、関東郡代伊奈半左衛門の手で審理された案件に基づいた創作であった。

幾多の名裁判がすべて大岡へ吸収され、講談を通じて人口に膾炙したのに対して、白石の政談は自伝による他はない。『折たく柴の記』は、江戸時代を通じて写本で伝えられるばかりで、一部の具眼の士しか目にしなかった。それが、明治14年以降に刊本が出版されてから、ようやく自叙伝文学の白眉として『福翁自伝』と並称されるに至るのである。

(G)
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