(25) 新井白石(1)―1
11.12.19
大岡越前守忠相と正徳の治を断行した儒学者新井白石とは、生きた時代がやや前後するものの、ある面では連続すると言ってよい。白石辞任の後、大岡が大活躍するのである。両者の立場や職務が異なるのに、連続するとはどういうことかについては後述することにして、まず、新井白石の略歴を紹介しよう。
白石は、大岡に先んずる29年前(明暦3年―1657-)に生れている。2度の浪人を経て仕えた甲府藩主徳川綱豊が6代将軍(「家宣」と改名)に就任したため、幕政を補佐するに至った。ただし、侍講(=将軍の教育係)という立場上、政策に容喙(ようかい)するわけにいかない。そこで、甲府藩時代の同僚間部詮房(まなべあきふさ)が御側衆(=おそばしゅう、将軍に侍し、老中の代役を勤める旗本)として家宣に近侍したため、それを媒介として、様々な政治改革を行った。
だが、老中などの幕閣からは煙たがられていたようである。歯に衣着せぬ直言を始め、根回しをせずに自身の建言を通そうとする直截的な方法が災いし、「鬼」と恐れられた。要するに瞬間湯沸器である。そもそも、政治的権威が将軍家宣のみに依拠していたから、門閥を中心とする守旧派の抵抗は頑強だった。
それでも、金銀貨幣の改鋳、大赦による罪人の釈放、悪名高い「生類憐れみの令」の廃止、贈収賄によって腐敗した政治の改革、公正な裁判などによって、短期間に一定の成果を上げている。
ところが、夭折した7代将軍家継の後を8代将軍吉宗が襲うや、白石の事蹟はほとんど覆されてしまう。そして、失意のまま身を引いた晩年は、幕府から与えられた江戸の辺境に隠棲しながら、『西洋紀聞』や『折たく柴の記』など多数の著作の執筆に専念した。
一方、大岡忠相の活躍するのは家継の時代以降である。享保元年(1716)普請奉行、翌年直ちに江戸町奉行へと昇格した。吉宗が将軍職に就いたのは、享保元年8月のことで、白石や詮房はこの時解任されている。【続く】