短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(26) 新井白石(1)―2 (25)の続き

11.12.24

さて、新井白石は大儒(=儒学の大学者)として名高い。正徳の治それ自体、儒教の根本思想である「仁」を施すことを目的としていた。だが、忠だの孝だのと頭ごなしに説教する教条主義者とは違う。現実に起こる複雑な事態と儒教倫理とに白石がどのように折り合いをつけたのか、その一例を自伝『折たく柴の記』(下)によって見よう。

信濃の国松城(=現松代)出身の男が江戸で商いをしていた。そこへ妻の兄がやってきて兄と妻の郷里である河越(=現川越)へと連れ出す。しばらくして、再び兄が訪れ、男は故郷へ商売に行ったから、その間実家で待つようにと言い、妹である妻を伴って帰る。

何日待っても帰ってこない夫の身を案じていると、付近を流れる川に死体が浮いたと聞く。妻は何とかして死者の身元を確かめたいと思い、父や兄に相談するが全く耳を貸さない。翌日名主に頼み込み、死体を引き上げて確認すると、果たしてわが夫であった。

役人が捜査に乗り出し、父と兄に事情を聴取すると、返答に疑わしい点がある。そのため直ちに家宅捜索を行い、婿の衣類等の証拠品を発見する。父と兄は言い逃れができず、二人で婿を殺害し、川へ沈めたことを白状した。

さて、ここで刑罰を蒙る者はだれだろうか。婿を殺害した父と兄だということは言うまでもなかろう。実は、それだけではない。この時代には、父の犯した罪を子が告発した場合、その子は獄舎に繋がれるのは当然として、時には死罪に処せられることもあったのである。父母に孝を尽くす儒教倫理にもとるというわけだ。だが、娘が父の殺人を告発したこの事件は、過去の判例が存在しなかったらしい。裁可を求められた老中からの建議書には、論語や刑法典などを根拠として、「父の悪を訴へしはその罪死に当れり」とまで断じていたという。

これに対して、白石は直ちに反論した。

主君と父と夫は、いずれも敬い仕えるのに差はない。女子が嫁した後は、父のため喪に服する期間が異なる。嫁した後は夫に従うのが道理だからだ。父と夫の両方を天として仰ぐことはできない。だから、自分の父が夫を殺したことを告発したからといって、不忠や不孝とはならないはずだ。まして、この娘の場合、死体の身元を確認したところ夫と分かり、役人の捜査によって父と兄の犯行と判明したのである。初めから父と兄との犯行を知っていて告発したのではない。従って、この娘が罪に問われる理由はない。

だいたい以上のような判定について、条理を尽くして詳述している。概要でも文庫本3ページ余りに亙るのだから、実際はもっと長い文書であったろう。

もちろんこれが石頭連中にすんなり通るはずはない。禁獄(=禁錮)一年の後、奴婢の身分に落とす、父兄の犯罪を知って訴えたなら死罪、知らなかったら奴(=やっこ、女性だけに適用された刑罰で、本籍を除き希望者に奴婢として下げ渡す)とする、などの断案が評定所から上程された。

そこで白石は、父や夫を失って生活の手立てをなくした者が僧や尼となることは、しばしば見られるところだから、この娘を尼寺へ送って受戒させ、父と夫の財産をその寺に寄進することで飢渇を防ぐのがよい。そうすれば、律法を損なうこともなく、あたら節婦を失わないで済むと再度建言したところ、その通りに執行された。この娘は、自ら尼になることを願い出て鎌倉の尼寺へ赴いたという。実に明晰で柔軟な頭脳だというほかない。

(G)
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