短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(18)『うつほ物語』と「天の食」(俊蔭巻)

11.10.17

清原俊蔭が、二十三年にも及ぶ波斯国(ペルシャ)の生活で、何を食べていたかは、物語にはほとんど描かれていません。食事の詳細など、平安貴族の物語にとって必要のないことだったのかもしれません。

ただ、「花の露、紅葉の雫をなめてあり経る」[新編日本古典文学全集①22頁]とあるので、露や雫によって命を繋いだことは確かです。江戸時代の国学者・山岡明阿は、この部分に「仙家の趣にいへり」という注釈をつけています。俊蔭の波斯国での生活を、仙人の生活と捉えているのです。

露を食とする仙人の話は、藐姑射山の寓話によって知られます。中国の『荘子』では、藐姑射の山に天下る神人は、五穀を断ち、風を吸い込み、露を飲んで生きていたそうです。風も露も仙人の食べ物でした。

「草木の露」が人を生かしたという話もあります。同じく中国の『洞冥記』では、東方朔が吉雲国にある玄・黄・青の露を瑠璃の盤に入れて漢の武帝に献上したところ、これを嘗めた者は皆若々しくなり、若返ったそうです。この露は草樹から生じたものであり、草花のエキスを含んだ露というのは、最高の不老長寿食でした。

ところで、俊蔭は「三人の人」と別れた後、「七人の人」と出会います。この「七人の人」は、俊蔭に七絃琴の秘曲を教えてくれますが、彼らの母は、忉利天(=須弥山の頂上にある天。帝釈天が住む。)の天女だそうです。昔、「いささかなる犯し」のために、母は天に、子は「中なるところ(=仏国土と人間界の中間)」にと離れ離れになりました。「七人の人」は、母乳のかわりに「花の露を供養と受け、紅葉の露を乳房となめつつ」生きてきたと言います[①34頁]。「七人の人」や俊蔭が命を繋いだ花・紅葉の露は、天が授けてくれた母乳、すなわち「天の食」であったと考えられます。

「天の食」で思い起こされるのが、宮沢賢治の「永訣の朝」です。

おまへがたべるこのふたわんのゆきに わたくしはいまこころからいのる どうかこれが兜率(とそつ)の天の食(じき)に変つて やがてはおまへとみんなとに 聖(きよ)い資糧(かて)をもたらすことを わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

「どうかこれが兜率の天の食に変つて」は、初版テキストでは「どうかこれが天上のアイスクリームとなって」でした。雪のように白いアイスクリームもよいのですが、「兜率の天の食」の方が、死んでゆく妹トシに対する祈りの表現としてはぴったりです。

実は、『うつほ物語』の「七人の人」は、昔、「兜率天の内院の衆生」でした。兜率天は、遠い将来、この世に下って衆生(=生きとし生けるもの)を救うと信じられている弥勒菩薩の浄土です。

衆生である賢治もトシも、死を迎える場にあって、きっと清らかで美しい「あめゆじゅ(霙)」に救われたことでしょう。いずれ、この「あめゆじゅ」が、生きとし生けるものすべてに命を与えてくれるような「天の食」になることを賢治は願ったのです。

兜率天からもたらされる「聖き資糧」、「天の食」は、『うつほ物語』では、忉利天からもたらされる「天の食」でした。

付記 このエッセイは、「蓮華の花園と天女の乳房」(『九十九段』41号 聖徳大学短期大学部総合文化学科 2009年3月)の前半部分を抜粋し、新たに書き加えたものです。

(し)
PAGE TOP