(16) 板倉政談 (1)
11.09.30
『醒酔笑』は笑話集であるが、なぜか板倉政談を10話採録してある。板倉政談とは、板倉伊賀守勝重(かつしげ)(1545~1624)の名裁き説話を指す。家康に重用された板倉は、駿府の町奉行を経て江戸町奉行となり、家康が天下を治めるようになってからは、京都所司代として治安維持に辣腕を揮ったという。
『醒酔笑』に見られる板倉政談は、相続、所有権、窃盗などの訴訟を扱う、今でいう民事裁判である。例えば、次のような人情味溢れるお裁きが板倉の真骨頂であった。
慶長7年7月7日に、背中に笈をかけた人夫ふうの男が、痩せて皮膚が黒ずみ、竹の杖にすがって京の町を通りかかる。地獄の罪人が歩いているようだ。男は、瓜を売る店に立ち寄り、腹の虫を治めるため、瓜を買おうとする。一本二文だが、腰には一文しかぶら下がってない。「盆の功徳と思って、一文で売ってくれないか。」と頼み込むと、店主は「一文はその分にしてやろう。」と言って瓜をくれた。しかし、瓜にかぶりついてから、腰を確かめると、銭は落ちて縄だけが残っている。男は慈悲を乞うて懇願するが、もとから邪慳な店主は、食い逃げだと決め付け、直ちに町の人を呼び集めて板倉殿へ訴え出た。
板倉殿はそれぞれの訴えを聞いた後、「事実を糺明するから、まずこの男を店主に預ける。食事を与え、町の者が番をするように。」と命じて帰した。「たった一文のために下らぬことを言い立てて、手間をかけさせることだ。」と町の者たちはぶつぶつ言いながら、男を一間(ひとま)に押し込めて、食事を与えた。
6日、7日と経過したが、板倉殿からは音沙汰がない。そこでめいめい参上して審議を督促すると、「忙しくて忘れておった。今は盂蘭盆、盗んだのは瓜一本だけ。この程度の裁許はさっさとすればいいのだが、瓜売りの性根があまり邪慳だから、わざと延引したのだ。飢えた者を助けるのが道義に違いないのに、弱者を捕らえて来て、銭一文ごときで首を刎ねろとは何事だ。施しをさせるためにこの期間は養わせたのである。急いで行ってその男を許してつかわせ。」と命じたので、同席していた者はみな頭を垂れて感涙に咽んだ。〈巻之四、8話〉
この他、実父の死後、育ての母と伯父とで継嗣の養育権を争う話から猫の所有権を裁く話まである。次に紹介する話は、現在なら当然不慮の事故死として扱われ、裁判に至るはずもなかろうが、その言い渡しが振るっている。短い文章だから、原文のまま示そう。
綾小路にて、板がへし(注1)する日、家主の女房屋根にあがりしが、いかが踏みはづして、落ちたり。となりの女房その下にゐあはせ、頭の上へころびかかれば、首の骨ちがひて死にけり。その女の夫、理不尽に、「わざと殺さんとて落ちたるものなり。是非こらへまじき。」と言ひ、所司代へ出づる。伊賀守殿、「余儀なき存分(注2)なるまま、幸ひ手本(注3)あり。右家主の妻をわが女の居たりし処に置きて、そちの、屋根にあがり、最前のごとく落ちかかりて、にくしと思ふ相手の女を殺せ。」とあれば、言葉もなく帰りつることよ。〈12話〉
やがて、勝重の息子周防守重宗(しげむね)、重宗の弟重昌の子内膳正重矩(しげのり)の事蹟を併せて『板倉政要』がまとめられる。巷間よく知られた大岡越前守忠相(ただすけ)を主人公とした人情政談は、この『板倉政要』や中国の『棠陰比事(とういんひじ)』、西鶴の著作とされる『本朝桜陰比事(ほんちょうおういんひじ)』、あるいは講談などから材を拾って作り上げたフィクションである。
(注1)板屋根の葺き替え。
(注2)やむをえない考え。
(注3)判例。この事件が後の手本となるという意。