短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(183) 江戸の珍談・奇談(25)-11

18.09.13

江戸時代に「胡麻の灰(蠅とも)」と言えば、旅人の懐を狙う泥棒を指した。その道に長じたプロである。狙った獲物のどんな些細なしぐさも見逃さない。

町家に年季奉公していたある者が、年季が明けたので本国へ帰ろうと暇乞いをした。まだ幼年にもかかわらず、金子3両を携えている。どうやって行くのだと問うと、伊勢参りの恰好で行くと答え、金子はどうするのだと心配すると、いやいや気遣いはいらないと平然として出掛けた。胡麻の灰がこの少年を見つけ、年季明けの丁稚(でっち)は必ず金子を持っているはずだと、一宿、二宿と跡を付けたものの、どこに隠したのか分らなかったので、手をこまねきながら3日・4日と付いて行った。

このまま手を空しくしていたら本意がない、どうしても奪ってやらねばならぬ、必ず金子を持っているに違いないと、胡麻の灰は頭を悩ましていた。丁稚の身に付けた物は、宿ですべて密かに検めたが、金は見つからない。髪の毛の中、笠の内を始めとして、行李、草鞋、藁苞(わらづと)、足袋、脚絆、帯、衣服に至るまで、丁稚が湯に行った隙にこっそり調べてみた。それで困り果てたわけだが、ある夜、一計を案じて周囲の戸を叩き、盗人だと呼ばわったところ、丁稚が起き上がり、柱に掛けた柄杓(ひしゃく)にまず目をやってから再び臥して寝た。さてはあの柄杓が怪しいと踏んだ胡麻の灰が奪い取って打ち割ってみると、案の定、二重底に金3両を入れてあった。

この話は盗賊が語ったこととして言い伝えられている。これほどだから、人の家に忍び入っても、金の置き所はたちまち知られると思ってよい。常に大切だと思っている人ほど、置き場所を盗賊に覚られる道理であるから、自分も知らないくらいにしておいて、家の中にはどこか必ずあるはずだと、場所を決めずに置いておくのがよいのだと言う人があった。〈『反古のうらがき』-『燕石十種』中巻、64ページ〉

伊丹十三監督『マルサの女』(1987年公開)に、脱税容疑者の自宅で査察官が隠し財産を探り出そうとする場面がある。質問を繰り返す間にしばしば容疑者が本棚に視線を送る。果たしてその裏に隠し金庫が発見されるのである。心理学で何というか知らないが、後ろ暗い者の心理を巧みに表現していた。

リスは、土中に栗などを隠しても、その場所を忘れてしまうものらしい。もし自分にも分らないような場所に置いたら、どうしても必要な時には大捜索しなければならなくなる。そんな時は大抵忘れているに違いないから、簡単に見つかることは絶対にない。家人には非難されるし、認知症かと疑われるのがオチだ。

現金は持たずとも、役に立たない保険やら何やら本人が生前忘れていた財産が出て来たり、反対に年会費を要するカードなどがそのまま残っていたりすることは大いにあろう。死後、それを発掘して始末する手間を遺族にかけさせることになる。盗人に狙われるのが嫌なら持たぬがよろしいと鈴木は結論付けた。もっと言えば、何一つ残さないのがよいのだろうと思う。

(G)
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