(180) 江戸の珍談・奇談(25)-8
17.11.27
『反古のうらがき』の著者である鈴木桃野の先妻の叔父は、鎗術師範を務めていた伊能一雲斎という。築地下に住み、旗本を始めとする多くの門人を擁していた。
ある旗本に剣術に相当な腕前を持つ若党があったが、一日突如として狂気を発し、太刀を引き抜くや、当たるをかまわず切りかかる。主人も、是非なく門を閉ざし、玄関から面座敷の辺りに暴れる狂人を閉じ込めた。
そこで、使者を通じて主人から伊能にこう言って来る。「ご存じの家来某が狂気を発し、白刃を振り回して手に余る。何卒捕らえていただきたい」という要請であった。伊能は聞いて、「これは思いも寄らぬご依頼だ。それがしはこれまで鎗や剣の師範は致すが、狂人を相手に無手取りをする心得はない。しかしながら、たってのご依頼だから、それがしがまず切られに参りましょう。各々方、その機を逃さず取り押さえてくだされ」と普段着に一刀を帯びて、使者とともに門から入り、玄関に案内を乞う。
狂人は、その声と同時に走り出て、「誰一人でもこの内へ入ったら真っ二つだぞ」と大声を上げて叫ぶと、白刃を提げて玄関の敷居に腰かけた。伊能は、何気ない体で玄関へ通り、狂人と並んで腰をかけ、右の方にむずと坐る。狂人は、意想外のことに取りかかることもしない。「この刀の切れ味を今日試みるつもりだ」と言って振り回し、狂ったように素振りなどをしている。斜めからその刀を見た伊能が、「刀の寸が少し長すぎると、意外に役に立たないことがあるものだ。注意して扱うがよい」と言うと、狂人は「いや、俺には手ごろだ」と答える。「見せてください」と言うと、「そら」と突き出す。
伊能は、刀を受け取るとそのまま遠くへ投げ捨て、狂人を取り押さえて組み伏せた。その時、人々が影から一斉に走り出て、とうとう狂人を捕縛したのだった。〈『鼠璞十種』中、17ページ〉
この事件が評判となって、伊能は無手取り(=武器を用いずに相手を組み伏せる術)の名人などと喧伝されたが、当の伊能は大いに困り、「狂人を相手に無手取りをする不覚者があるものか」と言い、「無手取りではない。頼まれたから仕方なく命を捨てに出て、相手に隙があったから手取りにしただけだ。決して無手取りなどとはいってくれるな」と制したという。
こう謙遜することで伊能の名は一層高まったに違いない。だが、一事で有名になると、まるで専門外の部門へも声がかかるものである。この一篇の表題は「尾崎狐」という。上掲の話と狐では無関係に見える。実は、伊能の無手取りは前置きで、本題はこの話の続きにある。伊能と狐がどう関わるのか、以下次号。