短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(145) 江戸の珍談・奇談(21)-1

15.11.24

幕末勤皇の志士、吉田松陰が、長州大津郡代を勤めていた周布政之助(すぶまさのすけ)から聞いてひどく感激したため、『討賊始末』の一文を草した。それは、殺された父と弟の仇敵の行方を二十年余かけて追跡した烈婦登波(とわ)の実話である。

古川薫に同名の小説があり、三田村鳶魚「雨簑風笠」(『江戸の噂』-大正15年3月、春陽堂-所収)という名文もある。ここでは、原典である松陰の『討賊始末』を収める『吉田松陰全集』(昭和47年7月、山口県教育会)の本文によって、まずその内容を紹介しよう。

長門国大津郡向津具(むかつく)上村川尻浦にある山王社の宮番(=神社の番人・小間使い)幸吉の妻に、登波という烈婦がいた。実家の父甚兵衛もまた豊浦郡滝部(たきべ)村八幡宮の宮番である。この宮番というのは、乞食以下に見られた身分だが、この夫妻の所為は武士にも劣らぬ節操である。

夫幸吉は、もと長州国内の困窮した百姓であったが、母と妹を連れ赤間関に零落し、物貰いとなり、さらに宮番に養われて川尻浦へ移ったのである。登波が幸吉に嫁したのは15歳の時で、幸吉が下関にいた時分である。幸吉は23歳であった。登波の父甚兵衛は、もと播磨荒井の百姓であったが、登波が7歳の時、母、姉伊勢、弟勇助とともに下関へ出た。甚兵衛が遅れて合流する前に母が物故し、姉は後に俵山の宮番に嫁してしまう。

幸吉には松という妹があり、下関で奉公しているうち、石見(いわみ)の浪人枯木龍之進(たつのしん)と自称する男と夫婦となる。この龍之進は、売卜(=占い師)または棒術・剣術の指南などをしながら諸国を徘徊する者であった。幸吉が登波を娶った時より4・5年後のことである。実は、この龍之進の素性は、安芸備後三次(みよし)の出で、被差別民であることが後に知られる。
龍之進とともに諸国を放浪した松は、文政3年-1820-12月、二人で幸吉方を訪れ、翌年正月まで滞留した。ここで登波は、龍之進と初めて対面したことになる。龍之進は九州辺へ行きたいので、妻の松を預かってくれと言って出かけてしまう。4月になり、先妻腹の9歳になる娘千代を連れて再訪した。今度は上方へ上りたいから、しばらく娘を預かってほしい、仕官等が決まればまた参上するつもりだと言って、一人出立した。

半年後、松は、登波の弟勇助の縁談を図るため滝部村の甚兵衛方へ赴く。その留守に、因幡浪人田中文後と名乗る者が幸吉方を訪れ、龍之進からの依頼を伝える。当家に預けた松を明朝新別名村の大願寺まで連れて来てくれ、というのである。松は滝部村へ行って留守である由を告げ、あれこれ応答しているところへ龍之進がやって来る。「今晩大願寺へ一宿を頼んだが都合が悪く、ここへ来た。いよいよ上方へ上ることに決したから、今度は娘も連れて行きたい」と言うので、幸吉は不審を抱き、「娘を連れて行ったら、今後帰国するかどうか知れたものではない。妹松は置き去りにされたと思っている。御身は、自分が難渋した時だけ松や娘を預けておきながら、少しばかり金の工面がついたからと言って、松を置き去りに遠路の旅行とは言語道断の不人情だ」と声高に詰め寄る。龍之進は話を逸らし、文後の方を向いて「上方へ上るのに、女房連れでは仕官の道が開けない。離縁するから、銀300目を付けてやろう」と言い出した。幸吉は「銀子を付けて離縁したいなどとは、下賤の我らとて迷惑千万。そんなお心積りなら、縁を切り、暇を取らせるつもりだから、ともかく松のいる滝部村へ両人とも同道してほしい。だが、今夜はもう遅い。当方にお泊りになるがよかろう」と、ひとまず頭を冷やすこととした。

翌朝、龍之進以下、娘千代、文後、幸吉の四人連れで滝部村へと向かう。まず、文後と幸吉が甚兵衛方へ先着し、前段の趣を伝えると、離縁を願う方向に大方決着する。龍之進は、途中の粟野川口(あわのがわぐち)渡し場で、渡し守の所に泊まっていた非人小市という者に娘を預けた後、甚兵衛方へ駆けつけた。

午後8時過ぎに到着した龍之進は、甚兵衛と松と対面して相談に及ぶ。幸吉と松が龍之進の薄情を詰り、激しい応酬が行われた結果、離縁に折り合いをつけ、手切れ金として銀300目を渡すことで落着した。だが、300目のうち、170目はすでに下関で松に手渡してあるから、今は30目だけ渡し、残りは文後を仲介として、来たる正月には幸吉へ送るつもりだ、と龍之進が持ちかける。幸吉と松は、もともと金銀に拘泥する気は毛頭ないのだから、その条件で離縁に応じることとした。一件が片付き、酒を酌み交わして、一見和やかに折り合いが付いたのである。

ところが、午前零時を回ると、龍之進が、娘千代を近所に預けてあるから、これから直ぐに出立したいと言い出す。闇夜の上、雨が頻りに降り、雨具の用意もないから、今夜は泊りなさいと、甚兵衛が気遣うので、しばらく休むことにしよう、と龍之進は文後とともに奥の三畳へ入って横になった。この夜、甚兵衛方には、息子の勇助、松のほか、利右衛門という百姓が炉端に臥しており、龍之進と文後とは顔を合わせていない。(以下次号)

(G)
PAGE TOP