(108) 江戸の珍談・奇談(5)
14.04.25
江戸の俗談を拾遺した書の中には、紅灯緑酒の間に流連荒亡する者が多く登場する。酒色、芸道、ギャンブルに耽溺して恒産を失うのは、今も昔も変わらない。自業自得と言えばその通りなのだが、人間の弱さを露呈して憐れさを誘う。
江戸霊岸島に御用聞きの材木商を営む奈良屋茂左衛門という分限者(=金持ち)があった。日光東照宮の修復に必要な木曾檜を獲得するために才智を傾ける。材木は柏木太左衛門が独占していたため、そこから仕入れるしかない。入札希望者は柏木に相談のうえ値を決めたのだが、茂左衛門はそれらを斥けて入札に成功する。さらに、貯蔵していた材木の供出を出し渋った柏木を公辺へ訴えて引き出させると、柏木は不届きであるとして、伊豆の新島へ遠流されてしまう。
こうして家財残らず闕所(=没収)となった柏木に材木の代金を支払うことなく、丸儲けとなった奈良屋は40万両という大資産を二人の息子に残した。
さて、兄茂左衛門は、気質大いに豪気であったから、名代の幇間(たいこもち)を数多く引き連れては吉原へ繰り出す。あるいは堺町、葺屋町で昼夜を問わず遊蕩する。吉原で馴染みの芸妓玉菊が病死すると、新町加賀屋の女浦里を請け出す。幇間とともに上方へも遠征し、7か月余りも遊里に逗留する。だが、その道中から病が付き、わずか31歳で死んでしまった。
弟安左衛門は、兄と異なり始末第一の堅実な性質だったが、古掛物、画賛、珍器等を金に任せて収集する趣味があった。幕府の役人が求めて得られないような珍物は、安左衛門の所に頼ったほどだという。安左衛門は代価を望まず、御用聞き格にしてくれるよう願ったため、兄の名跡をも取り込み、一段と店の格が上がった。
ところが、ここからがよくない。堺町に遊ぶようになり、芝居小屋へ資金を投入すると、役者付き合いをし始める。高級料亭の二階で名月の催し、子供を大勢集めての大騒ぎ。三味線名人を一時(=2時間)一分(=1両の4分の1)で呼び寄せ、三日間の遊興で500両を使い果すことさえしたから、江戸中から芸者が集まり、奈良屋へ行かぬ者は世上の付き合いの恥だとさえ言われるようになった。
こんな蕩尽を繰り返せば、いくら財産があっても足りるはずはない。満ちれば欠ける習い、金繰りに逼迫すれば、万事に亙って損金を出すばかり。箱崎町に構える一町四方の大名屋敷もとうとう利子が滞って人手に渡ってしまう。これを悲しみ、平井の聖天(燈明寺)へ断食して7日間参籠するが、今さら何をしても遅い。
貯えた書画骨董を売り歩くものの、「如何ほど金を取ても、雪で造りし猿の如く」すっかり消失してしまった。〈『江戸真砂六十帖』巻の二、『燕石十種』第一巻139ページ〉
1986年から91年にかけてバブル景気が盛行した。それがはじけた後には、似たような話を聞いたことがある。現在では、獅子文六『大番』を地で行く株式取引がパソコン上で容易に行えるようになった。無論、そこにも大なり小なり様々な哀歓が交錯しているに違いない。『江戸真砂六十帖』の編者は、「只一生長者とおもひ、蒔ちらしたる其体、口惜しき事なり」とこの話を結んでいる。放蕩三昧の末路を揶揄したり、過度に憐れんだり、また突き放したりしているのではない。一つ間違えば誰にでも起こりそうなことだと思っている。だから、「口惜しき事なり」と半ば同情に近い言葉が出て来るのである。