(77) 柴五郎の遺文(12)
13.06.05
何としても東京にのぼりたい。逆境から逃れようとする必死の喘ぎであり、青雲の志などという立派なものではなかった、と五郎は謙遜するが、後年陸軍大将にまで昇りつめるくらいだから、現状に安んじるような人物ではない。
野田の知人を頼って同伴上京の斡旋を乞うたが、断られてしまう。また、ドイツの軍艦が青森に入港した折には、給仕した将校が艦内を案内してくれた。この艦内のどこかに潜み、出港後、ボーイとしてドイツに連れて行ってくれと懇願しようという野望を抱いたが、軍艦はすでに陸奥湾の沖遥かに遠ざかっていた。
5月末、地租改正調査に訪れた大蔵省役人の一行に同行して上京できる見通しが立つ。東京に縁者があるかと問われ、知った名前を勝手に並べ立てて信用を得ると、同伴を約してくれた。県庁在勤の人々は、餞別として赤フランネルの古襦袢(シャツ)、古蝙蝠(こうもり)傘、手拭、風呂敷などをくれる。東京までという条件付きで山高帽を貸してくれた人もある。大人用であるから、耳まで深々と入った。
8月21日になって、ようやく東京に至る。千住の街路を通行中、前から人力車を連ねてやって来る一行を見れば、なんと野田豁通であった。五郎を認めると、車を止めて凝視する。五郎が山高帽を脱いで一礼すると、野田は奇遇を驚き、東京の住所を教え、後日尋ねるようにと言い残して去った。
斗南県大参事山川大蔵は、お家復興の地と定め、あらゆる困難を排して殖産に尽瘁したものの、廃藩に遭うや、翻然と荒野を蹴って東京に赴いた。野田もまた府県制の改革によって割を食い、大参事の職を辞して上京し、浪々の身となっていたのであった。
白地の浴衣に袴を着け、大人の山高帽を耳までかぶり、竹行李を十字に縛って肩に懸け、しかも草鞋(わらじ)がけである。みすぼらしい風体に違いないが、以前と変わって、虜囚ではないという自負だけが頼りであった。
当時の風俗を伝える記事として、五郎が断髪を紹介している。丁髷(ちょんまげ)からヘアスタイルを変えなければならないのだが、どうしてよいか分らない。うかつに切ったら罰せられるかもしれないと、役所に伺いを立てる始末だった。従って、以下のような申し渡し書が出されたという。
「総髪(前頭部の剃髪〈さかやき〉を止めて結束す)/剃髪(全部を剃り落す)/摘髪(ザンギリ、後短く前長し)/撫附(なでつけ)(摘髪に比し全部少し短く後さらに短くす)/右等願いに及ばず勝手次第の事」(第一部、90ページ)
要するに勝手にやれということだ。頭髪を切るにもこのとおりだから、他は推して知るべしである。五郎は混迷を極める世相を次のように記した。
昨日の権威地におちて踏み汚され、かつての軽(か)る者権威の座につきて贅をつくす。神仏一つにありしをわかちて仏閣の破壊されたるもの多く、城郭の焼かれたるものまた多し。信心の赴くところ定まらず、祖先を祀ること篤からざる世相(さま)となりぬ。(同、90ページ)
親戚知人が多いと嘘をついて上京したものの、どこを訪ねても寄食を受け入れてくれる所はない。山王下の仁王門の前にくると、若い乞食が竹棒の先に鳥餅をつけて賽銭を盗み取ろうとしている。自分も真似をしようと、乞食の立ち去るのを待つうちに、ふと気づくと母上の声が耳朶に響く。はっとして胸に痛みを感じ、そこを走り去った。