短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(76) 柴五郎の遺文(11)

13.05.23

兄五三郎の奔走によって、五郎少年は、学問修行のため、青森県庁の給仕として雇われることになった。大参事野田豁通(ひろみち)の世話になるということである。

この年7月14日、廃藩置県が行われ、斗南藩は斗南県となった。野田は、弘前県大参事である。熊本細川藩産物方頭取(とうどり)石光真民の末弟に生まれ、勘定方に出仕する野田家に入籍、幕末に京都へ出る。実学派の学者として著名な横井小楠(しょうなん)の門下に入った。後年陸軍経理局長に至り、男爵を賜わっている。

五郎によれば、野田は、義侠無私の人で、特に後進を養うこと厚く、箱館(函館)戦争には軍監として活躍した。かつては敵軍の将であったが、薩長土肥の閥外にあり、東北各藩の子弟救済に尽力していると聞き、千載一遇の機会とばかり、これに参じたのであった。

廃藩置県は、全国の旧藩主から知藩事の職を取り上げたわけである。従って、斗南藩主松平容大、旧藩主容保らは東京に去った。開拓がいまだ緒にもつかず、支柱を失った藩士の群れは、荒涼たる原野に取り残されてしまった。こんな危急の時だから、青森派遣は朗報に違いない。「どん底の一家欣然たり」と五郎は記している。

五三郎兄にともなわれ、羽織、袴に小刀を帯び、父上苦心して急造したる草履はきて厳寒の氷雪を踏み行くも、寒さを感ぜず。心躍りて見馴れし白雪一望の山河また美しく映ず。(第一部、77ページ)

県庁から支給された路銀一両、かねて世話になった山本啓蔵から餞別としてもらった一朱、古い蟇口(がまぐち)に父が入れてくれた一分を懐中に収め、兄から教えられた挨拶言葉を父の面前に両手をついて申し上げる。

「何か、ひとかどの修業をいたさねば、ふたたび家にもどりませぬ。父上、御健勝にてお待ち下され」(同、78ページ)

田名部から横浜を経て野辺地へ向かう。宿屋では、久しぶりに目にする漆塗りの膳に魚や菜汁が並び、一両年目にも触れなかった白米の飯を食らい、美味に驚く。泊る先々で腹を満たしたため、馬上で居眠りをしてしまい、路傍の樹枝に首を引きかけて転落するほどだった。

青森県庁へ出頭し、給仕を申し付けられる。月給二分だった。早朝、一般職員が出勤する前に、火を起して湯を沸かす。各部屋の掃除、火鉢の用意、鉄瓶や茶釜の配置など、雑用係である。しばらくして野田邸に引き取られ家僕として働いた。今まで乞食同様の暮らしを経験してきたのだから、この程度の仕事は楽しいし、たやすい。このため、評判がよく、ついには、県庁の給仕は全部会津出身者となった。

野田豁通は、討幕派、佐幕派などの区別なく、人物本位で登用した。後藤新平や斎藤実など、多くの人材を養成している。五郎少年も、こうした野田の気性に心底のこだわりが次第に融けていった。

(G)
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