短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(208)江戸の珍談・奇談(27)-2 20220722

22.07.24

歩牛が紹介する第一話の後半に移ろう。蛙が歌を詠んだ夢の話を歩牛に伝えた三宅左兵衛に仕える侍の話である。

新道壱番町に西の丸御書院番を勤める三宅左兵衛は、多芸にして武術に優れ、また風雅の志あって和歌を好む。加えて音楽をも好んで学んでいた。ある時、歩牛が訪れて芸談に及んだ折、自分に仕える面白い侍がいると左兵衛が言う。呼び出された男は隻眼でひどい醜男だったが、「この者は雅楽を上手に奏し、元来大坂天王寺の楽人を五年間務めた。だから今、自分もこの者から習っているのだ」と紹介した。この男の名を黒田直喜と言い、次第に雅楽の名手だということを聞き及んで、あちこちから弟子も付くようになり、よほど活計に役立っていた。

ある時、一ツ橋の邸宅に勤める何某という人が、直喜のことを耳にし、何とかそのご仁に逢って吹き合わせをしたいという旨を主人である左兵衛に伝えたところ、左兵衛が言うには、「苦しゅうない。召し連れるがよい」とのことだから、日を定めて何某の方へ連れて行った。亭主は悦び、何の楽やら吹き合わせると、格別に優れた吹き手だと言って、大変満足したという。その後、一ツ橋の御家の衆にも段々と広まったが、白川侯(松平定信)のお耳に達し、その者を召すようにとの命であったので、左兵衛にその旨を通じると、許諾して白川侯へ遣わすということになった。だが、無調法ではいけないと、着物や大小に至るまで、左兵衛が心を配ってやった。直義が白川侯に参上すると、何やら難しい曲をお好みなので、その曲を奏した。白川侯は殊の外お誉めくださり、召し抱えてくださるとのことである。その旨を聞いた左兵衛は、召し抱えられるとは格別な立身であると言って、これもまた許諾した。

すぐに抱えてくれるはずであったが、白川侯の仰せには、「その方、苗字を黒田と名乗るのはどういう訳だ」とのお尋ねである。直喜は由緒書を認めて差し上げた。先祖は福岡侯の祖黒田筑前守如水を守り育てたという由緒に基づく。如水から苗字を賜ったところ、その儀は御免くだされと辞退したため、それなら九州合戦の折、その方は西木戸をよく守ってくれたから、以後西木戸と名乗るがよいとのことで、西木戸何某と称して神職を勤め、息子や兄弟は黒田を名乗っていた。それから連綿として黒田姓を名乗って来たという。それなら、黒田家に由緒のあることだから問い合わせるがよいと言って、福岡侯へこのような者の由緒に相違ないかと懸け合ったところ、黒田家で吟味し、間違いない筋目の者だと判定された。しかしながら、そんな者が江戸へ出府したなら、最初に当家へ挨拶に来なければならないはずだから、まずこちらへ顔を出すようにとのことである。

それから、直喜は福岡侯へ参上したところ、「役人に問い合わせると、その方は御当家に由緒のある身分だそうだ。ご当地に下ったなら、早速参上すべき所を、どう心得違いを致したのだ。無調法にも程がある」と叱責された。しかし、その一方で「こちらに召し抱えてやるということだ。先達て白川侯でも御扶持くださるとのことだから、相談の上いずれ仰せつけられよう」と、非常に首尾が整う結果となった。

ところが、全体この人は惰弱で我儘の気質らしく、大家へ引き移って腰を折る苦しみをひどく嫌い、出奔したという。惜しいことをしたものだ。(同書、224~225ページ)

その後、直喜の消息を左兵衛が仄聞した。子供のための売薬をする千葉亥正という隠居の住む四谷御堀端音羽町に招かれて居候をしていたが、そこをも逐電して、とうとうその後の行方は知れずじまいになったという。

腰を折るばかりでなく、頭が土にめり込むほど低頭して権力に諂う者が多い中で、惰弱で我儘と言われようが、名誉にも地位にも関心を持たず恬淡としていた直喜の生き方にむしろ共感を覚える。 (G)

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