(195)江戸の珍談・奇談(26)-1
20.04.01
太田南畝(寛延2年-1749-~文政6年ー1823-)は、御徒(おかち)という下級武士の家に生まれたが、寛政6年-1794-46歳の時、幕府の人材登用試験である学問吟味に応試、最優秀で及第すると、2 年後には支配勘定(役高百俵)に昇進したほどの俊英である。それまで狂歌師として有名であったため、松平定信の寛政の改革によって田沼派が粛清された影響を被り、やむなく一旦狂歌の筆を折った。だが、大坂銅座に赴任した後、「蜀山人」と号して狂歌を再開している。
ここで取り上げようとする『一話一言』は、南畝 31 歳前後に始まり、72 歳に至る 40 年余りに見聞した話柄、古今和漢の書籍の抜き書き、人から寄せられた手記の類などを集成した57巻にも及ぶ大部な著作である。適宜拾い読みしながら、面白そうな話を紹介することにしよう。
まずは、「牛込御細工町家根屋の童小判と石と取替し時の伺書写」と題された、奇妙な金の詐取事件を訴えた文書である(訳文で示す)。
牛込御細工町家主五兵衛が申し上げます私、商売によって金子一両を外から受け取って置いておきましたところ、息子五郎と申す五歳になる者が、当月十三日、右の金子を幼いため何も考えず表へ持ち出しました。私は用事のため留守でしたから、金子を持ち出したことは存じません。それで、右の金子を入れて置いた箱を引き出して捜しましたが、見当たりませんので、家内の者に尋ねても知らないと申します。五郎に問うたところ、表へ持ち出し、亀と申す者の兄に小石と取り替えて渡したと申します。
亀と申しますのは、私の家の向かい側にある御納戸町孫右衛門の借家人嘉助と申す者の息子で、その兄は万五郎という十四歳ほどになる者です。そこで、妻まつが万五郎を呼んで参り、事情を問いますと、金子を持っていると申しますから、返してくれるよう申しました。すると、家に置いてあるから取りに行って返すと申して帰りました。しかし、それ以降戻ってきませんから、親の嘉助宅へ行き、掛け合いますと、万五郎はどこへ行ったのか、今不在だから、帰り次第問いただして金を返すと申しますから、待っておりましたが、回答がありません。再び問い合わせたところ、右の金子は通りがかりの者に脅されて捨てたと万五郎が主張するので、金子は返すことができないと嘉助から断ってきました。
そのため、五人組等に相談したところ、同じ町と言ってもいい所で起きたことで、しかもわずかな金子でもあるし、幼い子供が起こしたことでもある、それに五兵衛自身が金子を粗末に扱ったようでもあるから、お上へ訴え出るのも恐れ多い、示談にでもしようかと内談しておりました。ところが、嘉助がお上へ駆け込み訴訟を申し上げたので、私が呼び出され御吟味を受けるに至ったのです。勿論、こちらから訴訟を申し上げなければならないと考えておりましたのに、嘉助が先を越して願い上げた次第で、何とも理解することができません。かくなる上は、何分お慈悲をもって嘉助・万五郎を御吟味くださいますようお願い申し上げます。(『日本随筆大成 別巻 一話一言1』41~42ページ )
嘉助の方では、機先を制すれば有利に働くとでも思って五兵衛よりも先に訴訟に及んだのであろう。しかし、家に置いてあると言っていながら通りがかりの者に脅し取られたなどという理屈が通るはずもない。この訴状の後には、この事件を裁いたと思われる以下のような町奉行の狂歌が載せられていた。
かちかちと思ふて打ちて出でし身は石と金との非を知らぬゆえ
「かちかち」には「勝ち勝ち」が掛けてあり、「非」には「火」が掛けてある。「石と金との非」は、石と金子とを取り替えた悪事を言い、「打ちて出でし」は火打石を打って火花を出す意と勇んで訴え出る意とが読み取れよう。
嘉助と万五郎に対する慈悲を願った五兵衛であったが、判決がどうなったのか、残念ながら収録されていない。(G)