(190) 江戸の珍談・奇談(25)-18
19.09.07
近授流馬術の師範を務めていた一場藤兵衛は、『反古のうらがき』の筆者鈴木桃野の師匠でもあり、一時東隣に住んでいたこともあって、鈴木は、藤兵衛一家と厚誼を結んでいた。
この藤兵衛は、文政の末年に大坂御破損奉行として赴任した折、町人から賄賂を受け取った廉で遠島に処せられている。同役と申し合わせて、町人から申請された御用達の願いを取り持ち、袖の下を受け取ったというのであった。
その際、次男孫助が父の介助のために遠島の同船を願い出た。鈴木が門人に問い合わせ、その手続きをしてやったのである。門人の父が遠島となった時、子が介助の願い出をして島まで同行したことがあったが、父が島で亡くなった後に、孝心を認められ、お構い御免となった。そればかりか、程なくお召し出しに預り、高百俵を頂戴するまでに至っている。その例に倣おうというのであった。
ところが、同船の願いは叶ったものの、風の具合がよくないと二、三日出船が延引しているうちに、藤兵衛が病死してしまったのである。孫助は、お構いの御免も得られず、不運の中にもまた不運でしかない。
藤兵衛の長男は既に亡くなり、総領となった孫助は、科を蒙ったままである。他に男子はなく、孫娘しか残っていない。一場家はこうして断絶した。しかしながら、馬術の一流と称せられた近授流が絶えてしまうことを惜しんだ水野越前守(忠邦)が、わずかに残る免許目録を得た者に流派の継承を督励したという話である。
この一場家には、一寸八分の黄金の観音仏が数代前から伝わっていた。浅草観音と同体だと言い伝える。藤兵衛の祖父の代に貧窮のゆえ、某質屋に質入れしたところ、黄金の真偽を見分けようと、質屋が仏の足の裏を削ってみた。その夜、番頭が発熱し、「一場へ行こう、一場へ行こう」と狂気のように繰り返したので、恐れた質屋が金子も取らずに一場へ返したという。祟りはそれだけに止まらなかった。その後、質屋の主人である後家と密通した番頭が、別に男を通わせた後家を殺害したのである。
ここから数奇の運命を辿った孫助を主人公として話が展開する。孫助と鈴木とは、馬術の相弟子であるばかりでなく、鎗や弓も同門であり、加えて、乳兄弟でもあったから、実の兄弟同様に思っていた。
孫助は、野村篁園(江戸後期の儒者・漢詩人)の社中に属し、人物も敦厚でかつ滑稽を備え、師からもその力量を認められていた。史記の会読や詩会などで、月に四・五会は鈴木とも顔を合わせ、大いに頼りとしていたようである。
お構いとは追放であるから、江戸にいてはならない。そこで、孫助は甲府の知人の許へ行った。餞別を贈ろうと古参の弟子に合力を頼んだものの、快く引き受けてくれる者は少ない。結局門人以外から義捐金を募り、一両一分を孫助に手渡した。鈴木は、「かかる時にして、人心は見ゆるものぞかし」(『反古のうらがき』106ページ)と嘆いている。
孫助は、この金を路用として甲府へ赴き、雪駄の仲買をするというのであった。その後も時折江戸にやって来て、鈴木の許に立ち寄る。そのたびに銀一朱ずつ贈り、入用のことがあれば用立てるからと言っておいた。
ある日、孫助が来て言うには、「甲府は雪駄が高く、足袋が安いから、江戸で雪駄を買い入れて売り、甲府からは足袋を持って来るつもりだ。そのため、妻も連れて行って足袋を縫わせようと思う」と語る。例の通り一酌に及ぶと、銀一朱を贈り、夕方辞して妻が身を寄せる叔父の家へ向かう。そこで惨劇は起こった。【続く】