短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(187) 江戸の珍談・奇談(25)-15

19.05.14

太平の世であっても、いや、だからこそ外交に焦慮する必要がほとんどないため、国内の問題に目が集中する。とりわけ幕政や国政に携わる高級官僚の不正に憤りを覚えた者も多かったろう。鈴木桃野が取り上げた竹村海蔵という人物も、主人の家政の乱れを正すために家老を糾弾しようとした。だが、一向に聞き届けられることはない。鬱積した海蔵の不満は一夜暴発してしまうのである。

竹村海蔵は、向陵(=多賀谷向陵。名は瑛之、字は白(伯)華、号を向陵・五石などと称した。尾張生まれであるが江戸に住み、書を細井竹岡に学んだ幕臣の儒者で能書家)の門人の中で抜群の弟子であった。後に林大学頭(=述斎)の門人となり、秀才の誉れ高く、書と漢詩をよくしたため、出藍と称えられてもいたのである。

この男、幼時から人と異なる行動が目立った。ある時、向陵翁の所へ来て仲間の弟子らと遊んでいたが、庭の柿の木から実をもぎ取らずに一口ずつかじって、手の届く範囲の実はすべて食いかじったままにしてある。向陵翁が発見し、「これは海蔵の仕業だ。こんなことをして素知らぬ顔をして帰ったところで、面目ないと後悔するにちがいない。才能に恵まれているといっても、年端が行かないうちは子供じみた仕業もあるものだ」と一笑に付した。

翌日庭で遊ぶ弟子らに翁は声を掛ける。「昨日、いたずら者があって、柿にすっかりかじった跡がある。一つや二つなら、たくさんある内だから発見されなくて済んだろうに、ばかな奴だ」と罵った。弟子らが恐れすくんでいる中で、ひとり海蔵だけは平然とした顔のまま、「ぼくが柿に食いつきました。でも、みな渋いから、甘くなった頃に食おうと思って。摘み取らず木に付けて置けば、いつか熟すはずです。こんな渋柿を摘み取る者はばかですよ。こうして置いた方が利口で、先生のおっしゃることこそ反対に愚かです」と言って大笑いをしたのだった。

長じてからは、大酒を好み、呑むと人を罵り、議論を吹っ掛けては人に疎まれることが多かった。後年、主人の家政が乱れているのは家老のせいだと、家老某の隠し事を暴露し、数カ条に亙って弾劾したが、その身分が卑しいため、思うように事が運ばず、職を辞してしまう。その後は文雅の交わりを専らにし、世俗の塵を厭うて隠者のように風流に世を送っていた。

ところが、ある夕暮れに家へ帰る時、主人の門に入ろうとすると、ちょうど家老某も帰って来て、同時に門に入ろうとする。貴賤の礼があるのだから、家老に対して路傍に拝しなければならない。海蔵は悔しいと思ったのか、門のこちら側に小便をするようにしてそのままやり過ごした。家老が駕籠から降りて直接門へ入ろうとして見ると、頭巾を深く被った男の風体が海蔵に相違ない。「そこに立って小便をするのは誰だ」と家老が咎めたところ、その一喝を聞いて黙っていられない海蔵は、「おのれ、国賊」と叫ぶや否や、小脇差を引き抜いて正面から突き差した。家老は声も立てられずどうと倒れる。続けざまに二刀、三刀と追い打ちをかけたが、従者らは誰も手向わない。

そこを立ち退いた海蔵は、麹町の町医某の許へ行って、「今日は気持ちのいいことをして、俺は宿願を果した。今はもう何も望みはない。この上はどうしたらよかろう。こんな時に心が動揺して後世の物笑いになることも多い。そこで、君に相談だが」と事件の顛末を語る。

町医は親友であるから、特に驚く様子もなく、「それはよくなすった。この期に及んで何も相談することはない。ただし、三つの方法がある。これから主君に事実を告げて刑罰を待つのが上策にちがいない。しかしながら、これは常識的なやり方だ。その次は、このまま家に帰って自刃する、これが次善の策である。当たり前のことでありながら、勇士にふさわしく快い。その下は、姿を隠して万一の僥倖を待つのだが、下策としかいえまい。これは匹夫のやることだから」と言うと、「俺もこの三策を考えていた。最善策はよいが、命を惜しむのと同じだ。下策は始めから用いるつもりはない。次善に従おうと思う」と海蔵は言った。

それでは名残の酒を酌み交わそうと数杯を傾け、蘭竹の画を二・三枚描いてから家に帰った後、海蔵は自殺した。介錯は町医が務めたという。

桃野は海蔵を決して非難がましい目で見ていない。むしろ、その異能が失われたことを惜しむのである。海蔵は漢詩集一巻を残していた。死後、林述斎は桃野の同僚に命じて詩集の校正を行わせ、昌平坂学問所の助教を務めた石川柳渓が時折それを手伝っている。官学派の漢詩人石川は、海蔵の作を「はなはだ警策あり(=驚くほど詩文に秀でている)」と絶賛していたという。

(G)
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