(182) 江戸の珍談・奇談(25)-10
18.05.28
鈴木桃野の師である内山先生は、極めて純朴な人であったが、一方で、物事を行うに甚だ拙いことが多かった。
某からひどく大きな鰻を二匹贈ってよこした。先生自ら裂いて蒲焼きにして食べようと思い、桶から一匹取り出して俎板の上に置く。魚屋が鰻を裂く時には、手で撫でさすると、静かになって簡単に裂くことができるというから、少し手を添えたところ、ぬらぬらと抜け出して辺りを這い回る。そこで、しっかり捕まえて俎板の上に押し付け、三つ目錐(きり)で喉の辺りを貫いて俎板に刺し通そうとしたが、予め板に穴を開けておかなかったため、急に刺し止めることができない。奮闘及ばず「誰か来てくれ」と人を呼ぶと、今の暭斎(こうさい)先生がまだ十七・八の頃であったが、やって来て、鰻を貫いたまま錐をもみこみ、そのまま俎板を刺し通してしまった。
鰻は苦しさでもがくけれども、喉の辺りを板に貫かれて逃れることもできず、しきりに体をくねり回すばかりだから、手が付けられない。だが、二人がかりだから何とかなるだろうというので、包丁で骨の付近を少し切り裂いたところ、どうも勝手が違う。よく見れば、これはどうだ、あまり慌てたものだから、頭を逆向きに刺してある。向こうから裂けと言うと、こっちからも向きが合わないから裂けないと言う。それなら刺し直そうと錐を抜いた途端、鰻はここぞと思って、力の限りぬめぬめと逃げ出し、竈の下に入り込んでしまった。
薪を取り除いて捜し出してみると、およそ鰻とは見えないほど埃にまみれて、ぬめりもなく捕らえやすくなっていた。その姿のまま再び錐を突き立てればよかったのに、あまりに汚れているからと言って、桶の水で洗ってしまう。これでは捕まえることもできない。鰻は這いずり回って、板の間の隙から縁の下へ落ちてしまった。この板を一枚はがせと言って、こじ開けたところ、鰻は再びほこりまみれ。捕まえやすくなったと思ったが、前回に懲りているから、そのまま俎板に押し当て、早くさばくがいいと言うものの、騒動の間に錐の行方が知れなくなっている。やっとのことで縁の下から捜し出すと、「早く刺せ。ぐずぐずしていると、自然にぬめりが出て、また手の中から逃げ出すぞ」と急き立てられる。慌てて刺したから、今度は少し脇の方を刺してしまった。鰻は必死に尾を巻き付けて、自分の首際の少し貫かれた肉を力任せに引きちぎって、またもや脱出した。
もはやどうする手立てもなく、縁の下に入らない前にと、まず桶の中に運び込んで、共に思案に暮れていたが、先生、「思い付いたことがある」と言って手をポンと打つと、早速、鍋蓋を押し板にして、石で作った七輪を重石に置き、二匹とも押しつぶして、半ば死んだようになったところをさばこうと待ち構えている。
ところが、二匹の大鰻の力であるから、ものともせず、時に押し返すような勢いで、全く弱る様子もない。まだ重石が足りなかったと言って、その上にまた大鉄瓶に水を溢れるほど入れて置いたところ、やっと動きは止まった。しばらくして、もうよかろうと重石をどけるや否や、鰻は少しも弱っていない。危うく虎口を逃れたように、また暴れ出ようとするので、やっとの思いで鍋蓋を押しつけ、七輪を元のように押し据えた。それにしても手を焼かせる鰻の野郎だと眺めているうちに、先生、ふといい知恵を思い付いた。その七輪に炭をたくさん入れて火を起こし、大鉄瓶に入れた水をそのままかけておいて、団扇で扇ぐ。程なくたぎってきた湯を鍋蓋の隙から注ぎ入れたものだからたまらない。鰻は半ば茹でたようになって、二匹ともに死んでしまった。
これでもう安心だと取り出して裂いたところ、包丁の刃にも引っかからずよくさばけた。そうして串に刺して焼いて食べたのだが、予想に反してまずかったという。〈『反古のうらがき』92~94ページ〉
江戸前の蒲焼きは、蒸して脂を抜いた後、タレを塗りながら焼く。だが、それは生き鰻を裂いてからの工程だ。裂く前にじっくり茹で上げられたのでは、さばくのは容易に違いないが、ふにゃふにゃで歯ごたえも何もないだろう。因みに、本欄の筆者は蒸さずに直接焼いた鰻を好む。目の前でさばいた鰻をそのまま七輪で焼いてもらい、一度に十匹ご馳走になったことがある。若い時分の話だが、40年近く経った今でも、その家では語り草になっているそうだ。