短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(172) 江戸の珍談・奇談(25)-1

17.07.09

麻布某所の寺は、市街に近い所にある。文化年間の頃、その墓所に幽霊が出て、夜な夜な物語をする声が聞こえるというので、人々が恐れ合っていた。その辺りに剛胆な商人がいたが、ある時、月もほの暗い夜、宵の口から一人で墓所に忍び入り、大きな墓石の蔭に身を潜めて様子を窺っていた。
夜もすでに零時を過ぎ、虫の音が冴えわたる。月も折に出てはまた雲に入ってしまう。夜風が身に染みるし、単衣が夜露に湿りがちである。と、襟元がぞくっとしたと思うと、こちらの柴垣の側から人が現われ出たように見えた。もう一人そのあたりから来たようで、互いに語らう有様が、ひどく睦まじい。商人が耳を澄まして聞くと、多くは絶えて久しく離れていた間を語り、慰めているのだった。
どんな人なのかと、月の明るくなるのを待って、伸び上がって見たところ、一人は二十四・五の痩せた男である。もう一人は六十ばかりの老婦であり、共に語らう姿は、親子とも見えず、夫婦と言うほうがふさわしい。商人は、全く理解しがたいと、まだ不審を抱いていたが、折節世寒の風に吹かれて、音高く嚏(くさめ)をしてしまった。その音に驚いて二人の姿は消えて見えなくなってしまう。
明くる日、寺に行ってこの次第を伝え、あの柴垣の付近を見ると、合葬の墓が一基ある。今は無縁となったその墓の主は、過ぎた昔、二十四・五で死んだ商人である。その妻は久しく生き延びて洗濯婆となり、この二・三年うちに六十ほどで死んだ。そこで合葬したのである。思うに、夫婦の者が無縁仏として成仏できずに幽霊となって出たのに違いない。その様子は全く生前の恰好のままで、その間三十年も経っているから、不釣合いの姿であるのは、その理屈に合っている、と寺僧も言っていたという。〈『反古のうらがき』―三田村鳶魚編『鼠璞十種 中』所収―14~15ページ〉

『反古のうらがき』の著者鈴木桃野(酔桃子と号す)は、この怪談を紹介した後、「しかし其頃のいたづらなる滑稽人の作りし話にや」と疑義を呈した。さらに、男が二十四・五、女が六十ばかりという設定について、「有為転変の相を顕」し、巧みに考え出したところは、『聊斎志異』などにもない新趣向であると、割注に評してもいる。

作品の構想が新奇であるかどうかはさておき、三十年を経て幽霊になってもなお再会を喜び合うという話自体が面白い。死後の再会というから、何となく創作らしく見えてくるが、生身の人間の話なら信を置くに足りよう。以下は、伊豆の島への流刑から戻るまで男を待ち続けた許嫁の物語である。

文政11年-1828-、徳川治済(はるなり)の追善供養として、大赦が行われた中で、伊豆の島から八十歳余の老翁が一人帰って来た。すでに親戚も失せ果て、どこにも身寄りがない。そこで、旦那寺へ行って憐れみを乞うたのだった。
この老翁は、父の罪科によって十九歳の時に配流に身となり、その当時婚約した娘があった。その父母は他へ嫁すがよいと勧めたものの、生涯独身でいるつもりだという志であるから、ある大家の奥向きへ出仕した。天性貞淑で篤実であったため、多年の勲功を積んで老女の位となり、今年七十歳に至っていた。婚約した男の発船した日を忌日として、常に仏事を営み、その男の寺へ供物などを施しながら六十年の長い星霜を怠ることなく過ごして来たのである。
このたび男が赦免に蒙って帰って来たことは不思議であるというので、主君がその女の節義に感動され、老女の禄をくださったまま、「職から免ぜられ、例の夫を迎え取って養うがよい」とお命じになった。〈大郷良則『道聴塗説』―『鼠璞十種 中』257~258ページ〉

『道聴塗説』は、ほとんどリアルタイムに目撃あるいは打ち聞きした雑報を捃摭したものであるから、事実なのであろう。以前この欄で紹介した桂小金治がこの話を聞いたら、涙を滂沱と流して喜んだに違いない。

(G)
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