(160) 江戸の珍談・奇談(22)-8
16.10.18
文政11年3月中頃、雲峰の家に久しく仕えてきた老女があった。名をやちという。七十歳を超えたので、名を呼ぶ人もなく、ただ「ばば、ばば」と言った。婆の親族は皆絶えて引き取る者がない。死ぬまで主人の家で過ごすがよいと憐れんで住まわせて置いた。こうしているうちに、この年の3月中頃から、何の病気というわけでもなく急に気絶して、しばらく息も通わなかったところ、2時間程してようやく人心地ついた。だが、身体が自由にならないままで、日増しに食欲が進む。いつもの10倍となり、かつ間食に餅菓子を欲しがるので、そのまま与えたのだった。これだから、三食のほか、しばらくの間も物を食べない暇がない。死に近い者がこんなに健啖であることを不思議だと思わぬ者とてなかった。
婆は手足こそ不自由だが、夜毎面白そうに歌を唄う。あるいは友が来たというので、高声で独り言を言う。また囃し立てて、拍子を取る音さえ聞こえたこともある。さらには、ひどく酒に酔ったように熟睡し、日が高く昇るまで目覚めないこともあった。主人は訝って、松本良輔という医師に脈を取らせたところ、「脈は全くない。少しあるようでもあるが、脈ではない。奇妙な病気だな。薬の処方も分らない。老耄のなす所だから、正気を失って脈絡が通じてないから、ただ様子を見るほかない」と言って、時々来診した。こうして月日を経るままに、婆の半身が自然と薄くなり、遂には骨が出て穴を作る。その穴の中から毛の生えたような物が見えたというので、看病する者が驚き大騒ぎをする。
あれこれするうちに、文政12年の春になった。息をする気配があるので、腰湯を浴びせ、敷物などを毎日敷き替えて大事に扱ったところ、婆は大変喜んで、しばらく感謝を述べる言葉が絶えない。よい食事などを与え療養するために、主人が差配して少女を付けて置いた。
あれこれするうちにまた冬になったので、着る物を着替えさせたところ、脱がした着物に、狸なのか、獣の毛が多く付いていた。またその臭気がひどく、鼻を穿つほどなので、人々はいよいよ怪しんだ。この時以降、時々狸が婆の枕辺を徘徊したり、婆の蒲団の間から尻尾を出していたりすることがあるというので、例の少女が恐れをなして寄り付かなかったのを、主人が丁寧に諭すと、それ以後は馴れて怖がらなくなった。それに夜毎婆が唄う歌などを聞き覚えて、今夜はまた何を唄うのかと、心待ちにしている様子もひどく奇妙なことだ。とうとう婆の寝所に狸が数多く集まるに至ったのか、鼓、笛、太鼓、三味線で囃すような音が聞こえ、婆は声高らかに歌を唄っている。またある夜は、囃しに合わせて踊る足音の聞こえたこともある。
ある朝婆の枕辺に柿を多く積んで置いたことがあった。その訳を婆に問うたところ、「これは昨夜の客が、わしの身をよく大事にしてくださるお礼だと言って、与えられたものだ。」と言う。そうはいっても得体の知れない柿だから、だれも食わない。試しに割ってみると、本物の柿である。そこで看病する少女に全部やった。またある日、切り餅が多く枕辺に置かれていたこともある。これも狸の贈り物であるにちがいない。主人が深く憐れんでくれるのを、友の狸が感じてこんなことをしたのか、禽獣もまた情に感ずることがあって、仁に報いる心ではないかと人が皆言った。
それから、ある夕方火の玉が手毬のように婆の枕辺を飛び回っている。少女が恐る恐るこれを見たところ、赤い毬の光った物で、手にも取ることができず、忽ち消え失せた。翌日婆に問うと、昨夜は女客があって、毬をついたのだと答える。またある夜、火の玉がつるべのように上下することがあった。次の日、婆が言うには、羽をついたのだと答えた。
一日、婆が歌を詠んだというので、紙と筆をもらって書きつけるのを見ると、「朝顔の朝は色よく咲きぬれど夕は尽くるものとこそしれ」とある。婆は無筆だから歌など詠めない。これも狸の仕業にちがいない。さらに一日、婆が画を描いて、少女に与えたのを見ると、蝙蝠に朝日を描いて賛を付してある。「日にも身をひそめつつしむはかほりのよをつつがなくとびかよふなり」とある。婆は画を描く者でない。これもまた狸の仕業だ。こうして益々物を多く食べ、三食ごとに8・9椀、その間には芳野団子5・6本、間も置かずきんつば・焼き餅2・30など、このように日々健啖であるけれども、病はちっとも起きる気配がない。
こうしてある夕べ、婆の寝所に光明赫奕として紫雲が起こり、三尊の弥陀が現れて、婆の手を引くように連れて行ったと見えた。少女は驚き怖れ、慌てふためき走って来て、主人夫婦にしかじかと告げるや、主人雲峰は、その妻とともに走って、その寝所に行って見たところ、婆は熟睡していて何も目に映るものはない。そのうちに、この年11月2日の朝、雲峰の妻が夫に言うには、「昨夜年老いた狸が婆の寝所から出て、座敷中を歩き回り、戸の隙間から出て行った。」と言うのである。婆はそのまま息絶えた。思うに、当初婆が頓死した折、その亡骸に老狸がとり憑いていたのだ。これは雲峰の話したところを、そのまま書き記したものである。〈『兎園小説拾遺』第二、『新燕石十種』第四―大正2年5月、国書刊行会―所収。493~495ページ〉
「原本には、この下に、例の少女の夢に古狸が現れて、金牌を与えたなどとあるが、それは承引できないことだから、ここには省いた」と追記されている。粉飾を加えるのが得意な馬琴でも、さすがにこれはリアルでないと思ったのであろう。
本文中に登場する雲峰とは、大岡雲峰という幕臣で画家である。谷文晁や高芙蓉に学び、山水花鳥を得意とした。毎日「ばば」に大食されたり、介護のために人を雇ったりしても、一向に傾かない財力を有していたのは、絵の収入や弟子からの束脩によって潤っていたからに違いない。
介護施設も何もない時代である。老後の面倒や看取りは家庭で行われた。無論、雲峰のように家計に余裕のある家ばかりではないから、悲劇もあったろう。だが、身寄りのない老人でも最後まで養い、老人の望むように施してやる行為が当然のことだと当時の人々は考えていた。障害者や高齢者を狙った犯罪が絶えない現在、このように自然に発する慈愛は、薬にしたくとも見当らないかもしれない。