短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(158) 江戸の珍談・奇談(22)-6

16.07.30

ある朝早く、河越屋政八という者が緊要な話があると言って馬琴の家を訪れた。いつもの仮病をお使いにならず、ぜひお会いください、と懇願するのである。不審に思った馬琴が書斎から出て事情を問うと、昨日大変珍しく感動したことがありました、と政八が次の話を紹介した。

文政4年-1821-2月晦日の黄昏時、元飯田町の中坂に行き倒れの老女があった。当番の町役人や定番人がその様子を確かめると、旅行人のようである。ひどく老いさらばえて、長途に疲れ、足が痛んで一歩も歩けない、と言う。そこで、町抱えの者に背負わせ、番屋に助け入れた。事情を尋ねると、奥州白川の城下町にある宮大工十蔵の後家で、名をしげといい、今年71歳になるという。夫十蔵が死んだ後、13年前の文化6年-1809-の春、我が子源蔵が逐電して行方も知らせない。人づてに聞けば、江戸にいるという。家には亡夫の先妻の子があるが、生みの子でないから孝行でない。毎日の悪口雑言が煩わしく、生きる甲斐もない身の上だ。なんとか我が子の所在を探し求めて、遭いたいものだと決心したのが9年ほど前のことだった。

こうして文化10年-1813-の春の頃、奥州から江戸へ出て、半年ほど滞留し、四里四方ばかりか近郷まで毎月毎日捜したが、夢にも遭うことがない。それでは江戸にいないのであろう、とやっと思い返し、国巡りの志を堅く抱く。関東から西国、南海・北陸はもちろん、およそ66か国の霊山霊地を巡礼しては、過去には亡夫の菩提のため、現在には生きているうちに我が子に巡り合してください、と祈願に専念した。乞食(こつじき)をしながらの旅であるから、人の情けに遭う日は希で、野宿をしつつ、風にくしけずり、ある時は荒磯の波風に吹きつけられて終夜眠れず、またある時は深山路の雪に降り込められ、竹杖の節も地に届かない。このように艱難辛苦を経て来たけれど、今まで一度も病気を患ったことなく9年に及んだ。だが、今は廻国し尽し、行く所もないから、再び江戸を目指して、木曽路を下り、甲斐の峰を巡り、夕べは両郷(ふたご)の渡しという川辺の向こうにある里に宿をとった。そうして今日江戸に入ったのである。

ところが、御坂(みさか)の下で急に足が痛み出し、一歩も運ばすことができないので、思わず倒れてしまったのだという。町役人らが気分はどうだと老女に問うと、足が痛むだけで、心地はいつもと変らないと答える。江戸に知り合いはあるかと言うと、知る人はないが、八丁堀にある松平越中守様(=定信)は領主の屋敷であるから、そこへ送ってほしいと老女は訴える。そこで、腰につけていた風呂敷包みを解かして見ると、故郷を発った折に菩提所である某寺から得た通り手形という証文があった。年月を経たため、茶で染めたように古びている。だが、その印章は紛れもない本物だ。その他、銭800文と襤褸布だけである。老女の言うことと寺手形とが吻合したため、番屋の奥の間に臥させ、薬を与えて夕餉を食べさせているうちに、酉の初刻(=午後5時頃)を過ぎた時分、武家奉公をする中間(ちゅうげん)風体の男が、自身番の表を訪れた。

「主君の用事のため中坂を通りかかったところ、行き倒れの老女を見た。気に懸ったから詳しく聞こうと思ったものの、火急の使いであったため、仕方なく通り過ぎた。今その帰り道に中坂で人に問うたところ、番屋に入れられていると聞く。その老女に会わせてくれ」と言うのである。町役人が、うとうとしていた老女を呼び醒まして、そなたの縁者ではないか、会ってみるがいい、と告げると、しげはさっと起き直って、「それは我が子源蔵ではないか。おいお前は源蔵か。源蔵であろう」と忙しく問いながらいざり寄るのを、町役人らが押し止め、そんなに急いては事情も分からない、落着いて問えと宥める。

その時、中間が燈火を向けてあちこちと確かめて見たが、「我が母に似ているが、何年も経っているし、老衰しているから、はっきりとは言えない」と言う。町役人は、しげが奥州出身で宮大工十蔵の後家だと明言しているのに、幼い時に別れたからといって、親の名まで忘れることはあるまい、と詰め寄る。「その名に違いないけれども、世間には同名異人ということもある。また、偽って利を図る者もないとはいえない。何か証拠の品がありませんか」と中間から逆に問い返されて、町役人らが例の手形を開いて見せたところ、中間は小膝をはたと打って、我が母に間違いないと認めたのである。〈『兎園小説』208~211ページ〉

この後は、母子が再会の喜びに溢れる場面が叙せられる。「その歓はなかなかに、譬ふるに物なかるべし。天地ををがみ、町役人等をひとりびとりにふしをがむ、慈母の哀歓無量の恩愛、今さら肝に銘じけん、源蔵もはふり落つる涙を袖に堰きかぬれば、人々みな泣かぬはなかりけり」と書いている馬琴自身も感涙を催したに違いない。

老母を番屋から知り合いの宿屋へ移す時、引き拡げられた襤褸布を惜しいと思った老母が源蔵に包めと命じる。恥かしく思った源蔵が躊躇していると、その心情を察した町役人らは、定番人に手伝わせ、一片も残らず包ませて渡したのであった。馬琴はこうした細部まで描写することにより、一層読者の涙を誘う。

前回紹介したテレビ番組でもらい泣きした桂小金治は、落語家時代、小文治師匠に紹介され、柳家小三治(後の5代目小さん)の許へ稽古に毎日通い詰めた。午前中で稽古は終わるが、身が入って昼飯時になると、食事を供してくれる。終戦直後の食糧難の時代に、白いご飯をどんぶりでご馳走になった。ある日、稽古を終えて忘れ物を取りに戻り、戸を開けて中を見ると、小三治夫婦と子供が食事をしている。食卓の上にあるのはサツマイモだった。胸が詰まった小金治は帰りの電車の中で泣いた。落語の稽古は月謝を取らない。飯まで食わせてくれる。その有り難さと不思議さに、このまま稽古をしてもらっていていいものか、小文治師匠に尋ねたところ、師匠はニコリともせず、「バカやな、お前は。小三治はお前に落語を教えているんやないで。落語ちゅうもんを、この世に残しているんやないか」と答えたという。〈桂小金治『ケラの水渡り』-昭和42年8月、報知新聞社-71ページ〉

(G)
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