短期大学部・総合文化学科 │ 聖徳大学

(149) 江戸の珍談・奇談(21)-5

16.01.18

そもそも、登波が吉田辺を捜索したのには由来があった。初めて龍之進の娘千代を預かった折、何気なく、お前の親は国元では何をしているのか、と尋ねたことがある。馬沓(うまぐつ)を作っている、と娘が言うので、馬沓を作ってどうするのか、と聞くと、吉田へ持ち出して売るのだ、と答えたことが耳底に残っていたのである。そのため、仇を探し求めに出発する時以来、何でも吉田という所の近傍が敵の在所に相違はない、とどこの国とも知らず、気に懸けていた。そのうち、四国でふっと安芸に吉田という所があると聞き、これだろうと思い付いて、探索したところが、果してそこだったのである。

さて、龍之進の娘が彦山に住みついているというのは、すなわち千代のことである。16年以前の事件の節、龍之進が粟野口の無宿非人小市に預け置いたため、近所からも小市からもその筋へ届け出たが、究明の上、捨て子という処置に落ち着いた。その頃、彦山の山伏梅本坊が法用であの地を訪れ、連れ帰って養女とした。後に名を兔伊(とい)と改め、彦山宝蔵坊の妻となっているという。

12年前に出たきりであった角山の家に帰り、登波は家の様子を尋ねた。夫幸吉は病気が全快しないまま、妻の後を追って旅立ち、行方が知れないという。登波は、この苦節12年間の道行、また亀松に助太刀を頼んだことなど、夫に一々話すつもりで楽しみにしていたところが、予想外の事態に、愁傷の余り惑乱に及んだ。しかし、猶予していたら、敵龍之進がどこへ立ち去るか不安だ、片時も無駄にしてはならない、と亀松に激励され、叔父茂兵衛に密談したところ、同様に言う。そこで、願い出るにも及ばず、亀松を同道して、すぐさま滝部村に至り、甚兵衛その他の墓参をし、位牌等を写してもらい、彦山へと急いで立ち、下関まで赴く。ところが、そこへ、目明松五郎の名代として茂兵衛が追いかけて来た。ぜひとも一応立ち帰るようにと御代官所からの内命が下ったというのである。致し方なく、両人とも角山へ帰着した。これは、萩の目明与八から内々に藩政府へ登波と亀松のことを届け出ていたことにより、藩政府から御代官所に指揮があったことだという。

こうして藩政府では、衆議区々となる。賊を捕えて来て、萩の扇の芝という所に矢来(やらい)を結び、白日の下に復讐させるがよいとはいうものの、復讐は結局のところ美挙とはいえまい、ということで、亀松・登波については、5月28日に藩政府で決議し、御代官所で処置するよう次のように達せられた。

宮番の娘登波と申す者が、16年以前から処々方々仇の在所を尋ね、ようやく龍之進が芸州者と聞き質したため、敵討ちを許可してほしいと願い出た。だが、川尻・滝部その外でも、保証人となるべき親類縁者がない。従って、当分の間、御代官所預りとする。亀松は不義密通の者であるから、道理を言い聞かせ、生国へ帰るよう御代官所から指令するように。一方、龍之進は人殺しであるから、登波の申し出に従い、芸州及び九州を探索し、召し捕るよう命ずる。

このような指令書が御代官所に渡されたため、6月20日、大庄屋久保平右衛門が、亀松・登波両人を私宅に呼び出し、お授けの委細を趣旨細かに申し聞かせたところ、亀松の憤慨は一通りでない。数百里の遠路を一方ならず艱苦を凌ぎ、一朝事に当たっては、一命をも打ち捨てるべき任侠の気を毫末も諒解してもらえず、却って不義密通などと辱しめられたのだから、その無念は言語に尽くせるはずもない。しかしながら、この沙汰を聞いて、ほろほろと落涙し、即座に畏まり奉る段を申し述べた。一方、登波は格別に違背の申し分があるわけでないが、有無の返答をしない。そのため、一晩熟慮せよと両人を留め置き、明朝再び呼び寄せ、再応承知したか確認すると、両人とも全く納得した。そこで、路用金として二両受け取った亀松は、その礼とともに、他国者が長逗留できない国法であるからそれに従い、併せて、登波の存念は隠密裏に運ばねばならないため、帰国後も口外しない旨、一札を入れて、6月末に常陸へ立ち帰った。登波は、当分松五郎方に留め置き、丁寧に気遣いをしてもらい、それから組合の世話になると、その後角山村に自宅を構えて暮らしているという。(以下次号)

(G)
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